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久し振りに飛び込んだ自室のベッドマットは堅い。
けれども伝わる衝撃に、ああ帰ってきたのかと、張り詰めていた神経が一気に緩みだす。
終わってしまった、全て。いや、終ったもなにも、元より始まってもいないか。ただ少し長い『一仕事』を終えて、いつもの『日常』に戻るだけだ。
それがただの『事実』なのに、心臓が重い石ですり潰されているかのように、痛くて、苦しい。
「……っ」
堪らず結月はスマートフォンを手に取り、リダイヤルで発信した。
響いたコールは一回、二回。三回目で途切れた。
『……結月? 珍しいな、お前からかけてくるなんて』
「っ、土竜」
『……? なんだ、どうした? 泣いているのか?』
途端にからかうような気配が消え失せ、土竜の声に焦りが浮かぶ。
昔からそうだった。結月が泣くと、土竜はどうしたらいいかわからないと、オロオロとし出すのだ。
すると決まって気付いた『師匠』が飛んできて、「何したんですか」と土竜に睨みを効かせた後、結月が泣き止むまで頭を撫で続けてくれた。
けれども『師匠』はもういない。結月が縋れるのは、回線一本で繋がっている、こんな時はめっぽう頼りない『家族』だけだ。
「っ、うぇっ」
『結月、結月。腹が痛いのか? 転んで怪我したのか?』
そんな子供じゃあるまいし。
『ああ、それとも、ヤツに乱暴されたのか? 必要なら、消すぞ』
「……っ、ちがうし、いらないし」
『……そうか』
ことごとく予測が外れ悲しいのか、土竜がシュンとした声を出す。
おかげで少し、冷静さを取り戻してきた。
「……ごめん、土竜。契約、切ってきちゃった。せっかく、繋いでもらったのに」
『っ、……そうか。お前の判断なら、こっちが口出しする事じゃないな』
ある程度の状況を悟ったのか、土竜の声には先程までの焦燥はなく、変わりに優しく穏やかになる。
「……おれ、『師匠』の教え、守れなかった」
『…………』
「切り捨てるコトも、抑えこむコトも、できなかった。……でもちゃんと、終わらせては来たからさ、まだ、許されるかな」
言いながら、再びこみ上げてきた衝動に、結月は歯を食いしばりながらも小さく嗚咽を漏らす。
横たえた身体を小さく丸め、黙ったままの土竜が作る静寂を耳に押し当てながら、結月は暫く、涙を流した。
間を持ってから届いた声は、労るような、懐かしむような、不思議な響きだった。
『……結月。今は我慢せずに、好きなだけ泣いちまえ。理性と感情がバラバラになった時は、酷く辛いもんだ』
「っ」
『無理に抑えこまなくていい。泣きたい時に泣けるのは、お前が素直に育った証拠だ。俺は嬉しいぞ』
「……人が泣いてんのに、嬉しいってのはどうなの」
『アイツには殴られるだろうなぁ』
クツクツと笑う土竜の声が、傷口を癒していく。
『……今は辛いかもしれないが、案外、なるようになるもんだ』
「……うん」
『沢山泣いたら、寝ちまえ。今は考えるだけ損だ。……朝は、直ぐにくるからな。ちゃんとカーテン閉めとけよ』
「わかってるよ」
やはり土竜の中で結月の認識は、幼子の頃からあまり変わっていないのかもしれない。
付け足された注意事項に胸中で嘆息しながら、結月は言われた通りカーテンを閉めなおそうと、重い身体を起こして窓に近づいた。
見上げた先に広がるのは、星たちだけが疎らに瞬く漆黒の夜空。
新月か。そう意識外に思いながら、結月はキッチリとカーテンの隙間をなくす。
「……ありがとう、土竜」
珍しく素直に述べた結月に、電話口の向こうで微かに息を詰めた気配が届く。
それから頬を緩めたような静かな吐息が掠めて、『いつもそんぐらい可愛気があればな』と満足そうな声が撫でた。
翌日。昼前に目を覚ました結月は久し振りに触るデスクトップ型のパソコンに電源を入れ、請負を保留にしていた仕事に了承を返し始めた。
流れる日々は待ってくれない。不定期な稼業では、取れる時に取っておくが鉄則だ。
待ち構えていたかのように依頼主からの返答は早く、詳細の資料は、夕方には出来ると言う。ならそれまで長らく空けていた部屋の掃除でもするかと、結月はせっせと掃除機をかけ、布団を干した。
そういえば、あちらの部屋の冷蔵庫に、食料を大量に残したままだった。
仁志は自炊する性格ではないし、あのまま廃棄されるのは勿体ない。逸見が上手いこと使ってくれているといい。
せかせかと動き回っているうちに、一通のメッセージが届いた。
約束の時間よりは少し早い。もう出来たのかと迅速な対応に目を丸くしながら開くと、そこにはあろうことか、依頼のキャンセルが記されていた。
(……なんかあったのかなー)
文面上、こちらに非があるような印象ではない。むしろ、苦渋の決断といった感じだろうか。
ともかく、断られてしまった以上は仕方ない。キャンセルを了承した旨を返信し、結月は食料を求めて慣れ親しんだ近場のスーパーへと赴いた。
土竜のアドバイス通り、泣いて、寝て、目覚めた時は随分と落ち着いていたとはいえ、未だ心の傷は深く残ったままだ。
正直、仕事をする気分でもなかったしと、結月はこっそり安堵の息を零した。
明らかな異変に気がついたのは、二週間程が経ってからだった。
暫くは大人しくしているのも良いかもしれない、と思ったのがいけなかったのか、あの一件以降、全く依頼の連絡が入ってこない。
一週間程が過ぎた頃にはソワソワとしてきて、もしかしたら自分の回線がおかしいんじゃないかと土竜にも確認の連絡を入れたのだが、『いや? 特にないぞ。それよりもちゃんと飯食ってるのか? たまには帰ってきてもいいんだぞ』と言われるだけで、目ぼしい成果は得られなかった。
それから更に、一週間だ。
さすがにおかしい。警察が嗅ぎつけた気配もないとなると、悪い噂を流されたか、本当に運が尽きたかのどちらかだろう。