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「迷い猫のポスター、頼めそうなお店全部回って、張らせてもらってきたわ。明日は動物病院も何件か回って、ポスター置い
てくる」
「なんとか、早いうちに見つかって、連絡がもらえるとありがたいんだが……。
明日は、天気が悪くなるらしいよ」
「うわっ。まずいなぁ」
いつもは、長々とお喋りの続く、れれ夫婦の晩ご飯だったが、その日はまるで猫のご飯のようにサッサと終わってしまった。
「大急ぎでちっちゃんのポスター作って、配って回ってたら、遅くなってしまったのよ。今日はこれでサッサと済まそうね」
と、スーパーにポスター持って行ったついでに買ってきたという、閉店前の半額シールが張られたお弁当を、大急ぎで食べ終
わったれれは、
「もう一回、捜してくる」と言い残し、そのまま外に飛び出して行った。
後に残ったれれ夫は、のろのろとお弁当の空箱を片付け、思いついたようにテレビをつけた。
「今晩から降り始めて、明日は一日中傘マークか。まとまった雨になるでしょうだって? 最近の天気予報、結構当たるんだよな」
独り言のようにぶつぶつ言ってから、僕とももちゃんの頭を順番に撫でたあと、
「捜してくるから、留守番してるんだよ。ちいは、何でまたこんな時に脱走したんだろうねぇ」
と言いながら、二本の傘を手にれれの後を追った。
玄関ドアの閉まる音に、僕はまるで頭をガツンと殴られたような心地で身を縮めた。
ずぶ濡れになりながら、トボトボとアスファルトの上を歩く、ちい。
余りの空腹に、足元もおぼつかなくなっている。外が、こんなに広いとは知らなかった。
だけど、絶対にボスに着いていくんだ。歯を食いしばり、雨の中よろよろと歩く、ちい。
そこに、いきなり耳をつんざくクラクションの音。
猛スピー ドで近づいてくる車。
ちいが、振り向く。もう遅い! ちい! 危ない!
ああ、ちい……
あまりのショックに、僕はうく気を失いかけた。
体中が、わなわなと震えている。
「雨が降ってくれて、良かったと思うわ」
ももちゃんの声に、僕はハッとして我に返った。
何を考えていたんだこの僕は。何というマイナス思考。
何というネガティブな妄想。
僕は、ブルブルっと頭を振り、肩の辺りをチョチョっと舐めてから、
「良かった?え、どうして? 」と努めて冷静に尋ねた。
「雨のせいで、ちいさんは遠くに行けないでしょ。どこかで雨宿りしてるはずよ」
そうか、その通りだ。
僕は、さっきの的外れな被害妄想を恥じた。
「ねえ、まるちゃん、じっと待っていないで、私たちもちいさんを探しに行きましょう。
猫が雨宿りしそうな所は、れれたちより、私たちの方がよく知ってるわ。
それに、途中で猫に会ったら、ちいさんを見なかった?って尋ねてみることだってできるわ」
僕たちは家中を走り回って、脱出口を探した。
だが、ちいが家出して以来、鍵のかけ忘れがないよう徹底されているようで、ゴキブリ一匹、この家からは出ていけない状況
だ。
雨音が強くなってきた。
可哀そうに……。ちいは、さぞ心細い思いでいるだろうな。
ももちゃんも、イライラと尻尾を動かしながら、ガラス窓の向こうで、雨に打たれる庭の草を見ている。ちい、どうか無事で
いてくれ。
祈るような気持ちで、窓の外に目を移した。
れれ夫婦が帰ってきた。
「ちいは? 」
急いで玄関に向かった。玄関には、ビショビショに濡れた傘を持った二人が、しょんぼりと立っていた。 夜が更けるにつ
れ、風も出てきた。
横なぐりの雨が、窓ガラスを激しく叩きつけている。
「私のせいで、本当にごめんなさい……」
ももちゃんが、ぽそっと呟いた。
「ももちゃん、違うんだ! 僕がしっかりしてなかったから、こんなことになったんだ。お願いだから、もうごめんなんて言わ
ないで。謝るのは僕の方なん だから!」
思わず叫んだ声が震えていた。
ももちゃんは、何も言わずに頷いた。
ーももちゃん、ごめん。僕、ボスと約束したのにね。あの立派なボスと。ももちゃんのこと守っていくって、約束したばかり
なのにね。目の前にいるももちゃんにも、去って行ったボスにも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
ちいのことだって、
「ちいのことだって、もっとちいの気持ちを分かってやるべきだった。ちいが、あんな風にお母さんのこと思ってたなん
て……僕、知らなかった。外で暮らしたことがなくて、赤ちゃんの時からこの家にいたから、悲しい思いなんかしたことない
んだろうって、ちいのこと勝手に決めつけてた。だけど、お母さんのことでは、ずっと傷ついていたんだ」
空気のような存在というのだろうか、今まで傍にいることが当たり前だった親友が、いきなり姿を消してしまった。
寂しさで胸が締め付けられる。
「ちいさんは、本当にお母さんにおいて行かれたの?」
ももちゃんが、ゆっくりと顔を上げた。
「分からない……」
ー僕ね、お母さんのお乳を飲みながらウトウトしてたんだ。だけど目が覚めたらツツジの植え込みの中にいたんだ。
ビックリしてミーミー泣いてたら、人間がたくさん集まって来てね。そのうちの一人が僕を抱き上げてこの家に連れて来てく
れたんだ。
ちいと初めて会った日のことが、頭に浮かんできた。
あの後、ちいは僕のお乳を飲もうとしたんだ。
お母さんが恋しかったんだろう。
毎日毎日、僕のお乳をくわえては、気持ち良さそうにグルグル喉を鳴らしてたよな。
僕は、大人になるまでお母さんと暮らしてから独り立ちしたけど、ちいの場合はまだ、お乳のいる赤ちゃんの時いきなり独り
ぼっちにされたんで、本当はずっと寂しかったに違いない。
そう言えば、ももちゃんもまた、お母さんと別れてしまったんだ ……。
夜中、れれが僕たちのいる押し入れをそっと覗きに来た。
明日は休みの日だから、もっと遠くまで捜しに言って来るね、と僕たちの背中を順番に撫でてくれた。
れれも、僕たちと同じ気持ちなんだなと思った。
ちいのいない最初の夜は、息苦しいくらい、辛く長い夜だった。