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次の日の朝、ぼんやりと空が明るくなる頃には、雨音も穏やかになっていた。
「前線が移動したようだから、午後には雨も上がりそうだよ」
二杯目のコーヒーを口にしたれれ夫が、天気予報を見ながら言った。
さっきからメールや電話に忙しいれれは、そう、と言っただけで振り向きもせず、また次の電話をかけている。
「そうなんです。昨日から居ないんです。……はい、大人のオス猫です。…… あ、全体は黒ですが、茶色の渦巻き模様が所々
に入っていて……。そうなんです。アメショーだとは思うんですが、尻尾がものすごく短いんです。不格好なくらい。まあ、
それで売り物にならないって、捨てられたんだと思いますが…。 はい、小さな箱に入れられて、ツツジの生垣の中で泣いて
ました。
……そう、それが心配なんです。一度も外に出たことのない猫なんで……。はい、どうぞよろしくお願いいたします」
「まるちゃん、聞いた?」
「うん。ちいが、アメなんとかで、不格好で捨てられたって。箱に入れられて泣いてたって」
やっぱり、ちいは人間に捨てられたんだよ。お母さんに置いてきぼりにされたんじゃないんだ。
ちい、ちいのお母さんは、ちいを捨てていったんじゃあないんだよ。ちい、早く帰ってきてくれよ。
ちいが、赤ちゃんの時に、どうして独りぼっちにされてたかって、本当のことがわかったんだよ。
休む間もなく、次の電話が鳴った。
「もしもし、はい、え? そうなんですか?はい、黒で尻尾が短くて、体の大きな……」
もしかして?
「ああ、良かった! うちのちいです!」
見つかったんだ!
僕とももちゃんは、思わず抱き合って喜んだ。
が、あれ? れれの声が、少し曇った。
「そうなんですか……。いえ、ありがとうございます。……はい。……はい あ、……はい。
そうですか……」
何だか、話が長くなっている。どうしたんだろう?
ちいの身に何か? 僕たちは、不安な顔を見合わせた。
「じゃあ、帰られてからもう一度お電話いただくということで。……はい。ありがとうございます」
ひとしきり話し込んだ後、れれは、何度かお辞儀をしながら電話を切った。
「ちい、見つかったんじゃないの?」
れれ夫が、体を乗り出すようにして言った。
「いや、あのね。今朝までは、いたそうなんだけどね」
動物病院の掲示板に張られたポスターを見て、電話をかけてくれたのは、前田さんという女性だった。
前田さんが昨日、大雨の中、車を運転して帰ってきたのは、夜の八時過ぎ。
土砂降りの雨が、車庫の屋根を叩きつけていたそうだ。
車のエンジンを切ろうとした時、ヘッドライトに照らされた車庫の壁に、何か黒い物が動いた。
目を凝らして見ると、
ー猫?
前田さんは、車のライトを点けたまま、ゆっくりと車から降り、恐る恐る近づいてみた。
ー警戒はしていましたが、逃げようとしないので、どこかのお宅で飼われている猫だと思いましたよ。
実は前田さん、つい最近知人から頼まれて、二匹の猫を飼い始めたばかりだった。
早速、猫用ご飯を取りに、家に入った。
車庫にいたその猫は、随分お腹が空いていたようで、お皿に顔を突っ込み、ものすごい勢いで一皿ペロッと食べ終わったそうだ。
前田さんは、車の中からタオルを持ち出し、雨に濡れた猫の背中を、丁寧に拭いてやった。
この渦巻き模様は確かアメショーのはずだけど、それにしては、えらく尻尾が貧弱だわ、と思ったそうだ。
猫はゴロゴロとのどを鳴らしながら、額を擦りつけてくる。
「前田さんは、その猫、というか、それは間違いなく、ちいだと思うんだけど、初めはちいを家に入れようかと思ったんです
って。だけど、家の中には、最近飼い始めたばかりの猫がいるんで、その夜は、そのまま車庫で雨宿りさせることにしたんで
すって」
ーちょっと待っててね。
前田さんは、ちいの頭を撫でてから、ベッドになりそうな箱を捜しに、家に入っていったそうだ。
ーちょうど体がピッタリ入る大きさの箱があったんで、中にタオルを敷いてからその猫を、あ、ちいちゃんというんですね、
ちいちゃんを抱っこして、箱の中に寝かせました。とても懐っこい猫ちゃんでした。
「いろいろ気を使ってもらって、ありがたいことだね。で、ちいは今どこに?」
「それがね、朝ご飯を食べた後、いなくなったんだって」
朝、前田さんが車庫を覗いてみると、ちいは、まだその箱の中にいた。
用意したてんこ盛りのカリカリご飯も、勢いよくペロっと平らげたそうだ。
その後前田さんは、いったん家に入り、少し用事を済ませた後、自分宅の猫を病院に連れて行くのに、車を出そうと車庫に戻
ってみると、
ーもう、その時はいなかったんですよ。雨も小降りになったし、お家に帰ったのかしら、なんて思ってたんですが、ここに来
てビックリしました。
ーさっきうちの車庫にいた猫じゃないの!
動物病院の掲示板に張られた迷子猫のポスターを見て、慌てて電話をかけてきたそうだ。
「分かっていたらケージにでも入れておいたのですが、なんて前田さんは謝っていらっしゃったけど、とんでもない。昨日
の、あのザンザン降りの雨の中、タオルの上で寝かせてもらえてただけでも、ありがたいと思ったわ」
れれの言葉に、僕たちもホッとした。
「本当にありがたいね。ご飯も食べさせてもらってるようで、ちょっと安心だ。で、その前田さん宅って……」
「隣の町なのよ」
れれ夫の質問が終わらないうちに、れれが答えた。
「そんなに遠くまで!」
「そうなの。車なら十分くらいだけど、猫が歩いていくには大変な距離だと思うわ」
僕の頭の中に、ボスを追いかけ無我夢中で走って行く、ちいの後ろ姿が浮かんできた。
キリリと胸が痛い。
「近くにいるんなら、お腹がすいたころ帰って来るかもしれないけど、そんなに遠くまで行ってしまってたら、ちいが自分で帰って来るのはちょっと難しいそうだね」
れれは何も言わず、ちいの出て行ったリビングの窓にゆっくりと視線を移した。
「ところで前田さんは、動物病院から電話かけてこられたようだけど、前田さん宅の猫ちゃんは、どこが悪いの? 病気かな?」
重い空気を振り払うかのように、れれ夫が話題を変えた。
「私もそれが気になって聞いてみたんだけど、足が悪いそうよ。
最近、頼まれて親子の猫を飼い始めたんだけど、一匹は足が悪いらしくて、手術でなんとかならないかって、相談に行かれたようよ」
「足が悪いって、事故にでも遭ったんだろうか?」
「いや、生まれつきだそうよ。私も足が悪い猫って聞いたら、つい事故ですか? って聞いてしまったんだけどね」れれが、僕
の方をチラッと見ながら、マグカップの底に少しばかり残ったコーヒーを一息に飲んだ。
ー親子の猫……片方は足が悪い……生まれつき……。
ももちゃんはまばたきもせず、窓の外を見つめたままだ。
「ももちゃん」
返事がない。ももちゃんのピンと立った薄茶色の耳元に向かって、もう一度声を掛けた。
「ももちゃん!」
ハッとして振りむいたももちゃんの顔が、強ばっていった。
「ももちゃん、もしかしたら?」
ももちゃんは、ゆっくりと大きく頷いた。