私が生まれたのは、平成の始まり、1990年代の日本。静かで風光明媚な田舎町で、四季折々の風景が鮮やかに移り変わる場所だった。家の裏には田んぼが広がり、夏になると蝉の鳴き声が響き渡る。冬には一面が雪で覆われ、家族でこたつに入りながらみかんを食べた記憶が今でも鮮明に残っている。
私の家は小さな農家で、両親は質素で勤勉な人たちだった。父は黙々と農作業に励む寡黙な男で、朝早くから田んぼへ出かけ、日が沈むまで働き続けるのが日常だった。肌は日に焼けて黒く、指先は硬く、土の匂いがいつも漂っていた。母は温かく優しい人で、家庭を守りながらも時折父を手伝う姿が印象的だった。彼女の作るご飯はいつもおいしく、特に冬に出される熱々の味噌汁は、今でも忘れられない味だ。
私の家は、古い木造の日本家屋だった。家の中は畳敷きで、襖が家族の部屋を区切る形になっていた。夏の夕方になると、風がそよそよと吹き抜け、涼しさを運んでくれた。庭には梅の木が一本植えられていて、春には白い花が一面に咲き、秋には小さな梅の実がたくさん実った。祖父が木を大切に育て、幼い頃には一緒に木に登って遊んだものだ。木登りは、私の中でひそかな冒険だった。
幼少期の私にとって、最大の楽しみは自然に囲まれた遊びだった。川辺で石を投げたり、虫取り網を持って野山を駆け回ったり、自分が自然と一体になったような感覚を覚えた。特に夏の夕方、夕焼けが田んぼの水面に反射して金色に輝く光景は、今でも心の中に強く焼き付いている。空は徐々に藍色に染まり、日が沈む頃には蛙の声があちらこちらから響いてくる。友達と一緒に帰り道を歩きながら、道端に咲く小さな花を見つけたり、時折足を止めて遠くの山々を眺めたりと、その一つ一つが日々の宝物だった。
しかし、田舎での生活には、豊かとは言えない厳しさもあった。冬になると厳しい寒さが訪れ、家の中でさえも冷気が忍び込んできた。薪ストーブで家全体を温めるのだが、部屋の隅は寒く、朝起きると窓には霜がびっしりと張り付いていた。外に出ると、足元の雪がギシギシと音を立て、凍てつくように冷たかった。それでも、父はそんな寒さの中でも毎日変わらず働き続けていた。
学校へ通うようになっても、私は自然の中での遊びをやめることはなかった。学校は町の中心にあったが、片道30分ほどの距離を毎日歩いて通った。道すがら、野原や畑が広がり、その風景は私にとって変わらない心の風景となった。友達と話しながら歩く道中も楽しかったが、一人で帰る日は、頭の中でさまざまな空想を繰り広げる時間だった。
その頃から、私は「なにか」について考えるようになった。何であるかは明確にはわからなかったが、自然の美しさや静けさ、そして人生の不思議さを感じる度に、胸の中に何か大きなものが広がっていくような感覚を覚えた。星空を見上げると、広大な宇宙の中で自分は一体何者なのか、と考えずにはいられなかった。家の裏にあった広場に寝転び、夜空を見上げては、自分という存在が世界の中でどれほど小さいものなのかを感じたことが何度もあった。
そんな日々の中で、私は「自分とは何か」という問いに目覚め始めた。これは、単なる幼少期の無邪気な疑問ではなく、私の人生を通じて探求し続けるテーマとなるものであり、今でもその答えを求めている。
だが、当時の私にとって、その問いの答えはすぐに見つかるものではなかった。ただ、田舎の風景の中で、家族と共に過ごし、自然に抱かれているときにだけ、その「なにか」に少しだけ近づける気がした。
そうして私の幼少期は、自然の冒険と家族の温もり、そして心の中で芽生えた「なにか」を追い求める探求の始まりとして幕を開けたのだった。
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