テラーノベル
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白い手が伸びる。
水面を破り。
静かに。
ゆっくりと。
まるで助けを求めるように。
旅僧の手に力が入る。
怖い。
だが。
それ以上に。
悲しかった。
手には敵意がない。
怒りもない。
ただ。
何かを求めている。
そんな気がした。
その時だった。
渡守が舟へ足を掛ける。
すると。
無数の手が動きを止めた。
一斉に。
まるで。
親を見つけた子供のように。
静かになる。
旅僧が息を呑む。
「何者なのです」
引き攣った声。
渡守は振り返る。
少し考える。
そして。
「忘れたわ」
静寂。
渡守は川を見る。
遥か彼方。
向こう岸の見えない川を。
「でも」
風が吹く。
「役目は覚えてる」
静かな声。
「渡すの」
旅僧が眉をひそめる。
「誰を」
渡守は答える。
「帰れなくなった人達」
川面が揺れる。
無数の手も揺れる。
まるで。
言葉に反応するように。
その時だった。
佐衛門が川を見る。
長い沈黙。
そして。
ぽつりと言った。
「違うな」
渡守の瞳が揺れる。
「何が違うのです」
旅僧が聞く。
佐衛門は川を見る。
無数の手を見る。
そして。
渡守を見る。
「帰れなくなったんじゃない」
静寂。
「帰る場所を忘れたんだ」
風が止む。
渡守の目が見開かれる。
その瞬間。
川の手が震えた。
無数の手が。
一斉に。
水面を掻く。
旅僧の背筋が凍る。
渡守が笑った。
悲しそうに。
どこか安心したように。
「やっぱり」
小さな声。
「あなたは変わらない」
その時。
川の中央で。
何かが動いた。
旅僧が顔を上げる。
巨大な影。
水の下。
遥か深く。
何かがいる。
魚ではない。
龍でもない。
もっと大きい。
もっと古い。
何か。
渡守の表情が変わる。
初めてだった。
明らかな焦り。
「駄目」
掠れた声。
「まだ起きちゃ駄目」
川面が波打つ。
静かだった川が。
荒れ始める。
無数の手が悲鳴を上げる。
声はない。
だが。
確かに聞こえた。
助けを求める叫び。
その時。
旅僧の札が燃える。
慌てて取り出す。
文字が浮かぶ。
『舟に乗るな』
静寂。
全員が固まる。
続いて。
次の文字。
『名を呼ぶな』
風が吹く。
そして。
最後の文字。
今までで最も濃い文字。
『振り返るな』
三つとも。
嫌な予感しかしない。
その時だった。
川の向こう。
見えないはずの彼岸から。
声が聞こえた。
『おーい』
静寂。
旅僧が凍り付く。
聞き覚えがある。
その声。
懐かしい。
あり得ない。
何年も前に死んだはずの。
師の声だった。
お師さんの隻眼も見開かれる。
鐘撞きも。
墓守も。
それぞれに。
何かを聞いている。
渡守が叫ぶ。
「聞くな!」
川が荒れる。
風が唸る。
そして。
佐衛門だけが。
じっと川の向こうを見ていた。
静寂。
誰の声も聞いていない。
ただ。
遠くを。
遥か遠くを。
見つめている。
その瞳に。
一瞬だけ。
懐かしさが宿った。
#短編ホラー
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コメント
1件
「白い手」が一斉に動きを止めたあの静けさ、すごく好きです。「帰れなくなったんじゃない。帰る場所を忘れたんだ」——佐衛門のその一言で、物語の空気が一気に変わった気がしました。渡守の「忘れたわ」という台詞がここで効いてくる。それと、最後の「懐かしさが宿った」佐衛門の視線、あれ何か秘密がありそうですね。三つの禁止事項も、どれも嫌な予感しかしない…続きが待ち遠しいです。