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猫下僕
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「名前には、どんな意味があると思いますか?」
チャイムが鳴り、5限目の倫理の授業が開始したと同時に、倫理と公共の授業を受け持つ女性教師、江風 水華が問う。
唐突な質問に、教室には困惑の波が打ちつけた。生徒たちは皆、戸惑いの表情を浮かべている。
そんな中、成海 陽綾は一瞬で授業に見入ってしまう。
先程までは漫然と授業を聞いていた姿が崩れてしまうほどに、興味深い質問だと陽綾は思ったのだ。
(名前の意味……か。)
「名前とは、自他を区別する”箱”であると私は定義しています」
生徒の回答を待たず、すぐさま水華は答えた。
「名前はこの世のあるとあらゆるものにつけられています。例えばペン」
水華は教卓に鎮座するボールペンを持った。
そして、ペンを転がすようにしてから見せつける。滑らかな動きだった。
「これはボールペンと呼ばれ、他の物と区別されていますね」
水華はボールペンを持ちながら話を続ける。
「名前をつけることで、役割・見た目・動き・性質などその他さまざまなものを含め、他の物と区別されてきました」
水華の口調は淡々としつつも、言葉のひとつひとつにも重みを含んでいる。
声質は冷たいながらも生き生きとしていた。
これが陽綾が水華の語る内容に惹きつけられた要因のひとつだ。
陽綾は姿勢を正し、水華をしっかりと見据える。
「私もあなた方も、”名前”があります。もちろんこれは一個人の名字や名前だけではありません」
水華は言葉を置く。
「人間という種族や性別も名前があり、それを構成する原子やDNAにすら名前があります」
水華は持っていたボールペンのノックボタンを教卓に触れさせる。ボールペンがカチッと鳴り、ペン先が顔を出した。
「私は名前を、これらはそのものの個性を表すものだと言いましたが……。それはそのものの範囲を独断で決めてしまっているともいえるのではないでしょうか」
「私は人として地に生まれ、江風 水華という名を与えられ、日本人女性として今日まで生きてきました」
ふたたびボールペンのノックボタンが教卓に触れる。 今度はペン先が隠れた。
「名前によって私と他者を区別することができるようになりました。しかし、名付けにより名前は規定され、私は名前に囚われました。ここで私が他者であった可能性は消えます」
「結論を言いますと、貴方達には議論をしてもらいたいのです。名付けは呪いなのか、はたまた個性なのか」
「もちろん結果はどうであれ、名付けは社会にあるべき要であることは変わりません。名付け自体を悪いから改善しよう、無くそうだなんてことはなく、ただ問いたかったのです」
【下校中】
日はすでに傾き、空は橙色に染まっている。
ランドセルを背負った小学生達は元気に走り、
同級生達は友人をたわいも無い会話をしながら帰っている。あるいは意中の人と帰る者もいる。
そんな甘酸っぱい時間を過ごす人もいるようだ。
陽綾は、帰路に着いた。
友人とはすでに別れ、自分の家へ近づいている。
だが、帰路に着いてもあの問いが耳に残っていた。
「名前とは呪いか、個性なのか」
哲学的で答えのない問い。
考えていても仕方ないと分かっているのに、結論を出したくなってしまう。
それが人間のさがなのかもしれない。
知的好奇心が尽きない、人間というもののさが。
これがまた文明を発展させる要因なのだろう。
思考をしているうちに、家の扉が視界に入っていた。
陽綾は家の扉を開け、靴を脱ぎ、
家族に「ただいま」と言う。
手を洗ってから、自室で服を着替える。
そんないつもとほとんど変わらない時間が過ぎ去っていった。
________一つの問いを残して。
コメント
1件
ああ、素敵なエピソードでしたね…!江風水華先生の「名前とは自他を区別する“箱”」という定義、すごく心に刺さりました。ボールペンを使った実演も、具体的で分かりやすくて。陽綾がその問いに惹きつけられて、下校中もずっと考え込んでしまう気持ち、すごくわかります。「名付けは呪いか、個性か」――哲学的で答えのない問いを投げかけられると、知らず知らずのうちに自分も考え始めてしまう。前編ということで、続きがすごく気になりますね。後編もぜひ読ませてください!📖