テラーノベル
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千葉県、東京湾岸。
日本最大級のエネルギー拠点、京葉工業地帯。
無数の配管と蒸留塔が林立し、その隙間を縫うように張り巡らされた照明が、夜の闇に複雑な幾何学模様を浮かび上がらせている。
24時間365日、眠ることのない鉄の森。
その一角にある大手石油元売り会社が保有する製油所が、今夜は異様な緊張感に包まれていた。
『特別高度保安作業実施中』
正門には物々しい看板が掲げられ、警備員の数は通常の三倍。
しかも、その制服の着こなしや鋭い眼光は、民間の警備員というよりは警察官——それも公安畑の人間——を思わせる。
海側には海上保安庁の巡視艇が「演習」名目で停泊し、海路からの接近を完全に封鎖していた。
深夜2時。
黒塗りの巨大なタンカーが、静かに専用バースへと接岸した。
船体に記された船名は消され、ただ「JG-01(Japan Government 01)」という無機質なコードネームだけが塗装されている。
それは新木場の極秘港湾施設から転送された、「テラ・ノヴァ産原油」を積載した最初の輸送船だった。
「……来たぞ。例の『特務原油』だ」
製油所の中央制御室(セントラル)。
大型モニターで接岸作業を見守る所長の山崎は、固唾を飲んでその瞬間を待っていた。
彼の背後には、経済産業省から派遣されたスーツ組の官僚たちと、日下部駐在員の姿がある。
「山崎所長、手順の確認です」
日下部が静かに告げた。
「この原油は、全量を『国家備蓄タンク』へ直結し、専用ラインで精製を行います。
既存の民間用ラインとは物理的に隔離してください。
また、精製過程で発生したデータ、およびサンプルはすべて、特定秘密(トップシークレット)扱いとなります」
「分かってますよ。
『深海大水深の試験掘削で得られた特殊サンプル』……でしたな」
山崎は鼻を鳴らした。
この道四十年のベテラン技術者だ。
そんな取って付けたようなカバーストーリーを信じているわけではない。
だが、国家権力が全力で隠そうとしている「何か」であることは理解していた。
「接続完了、ポンプ圧上昇。
……受け入れ(アンローディング)開始します」
オペレーターがスイッチを入れる。
太いパイプの中を黒い液体が、ゴウゴウと音を立てて流れ込み始めた。
現場の最前線、成分分析ラボ。
ここでは陸揚げされた原油の品質検査が行われていた。
試験管に採取された黒い液体。
それを分析機にかけ、比重、硫黄分、粘度、重金属含有量などを測定する。
通常なら中東産や北米産など、産地によってその特性は異なる。
「ドバイ原油」なら硫黄分が多く、「WTI(ウェスト・テキサス・インターミディエイト)」なら軽質で高品質、といった具合だ。
だが、モニターに弾き出された数値を見て、白衣を着たベテラン分析官の手が止まった。
「……おい、機械が壊れてるぞ」
彼は隣の若手を怒鳴った。
「キャリブレーション(校正)はどうなってる!
数値がおかしい!」
「え? いえ、昨日メンテナンスしたばかりですけど……」
「ならこれを見ろ!
すべての不純物が『検出限界以下(N.D.)』だぞ!?
こんな原油があるわけないだろ!」
分析官が指差した画面には、信じられないデータが並んでいた。
硫黄分(Sulfur): < 0.001%(N.D.)
重金属(Heavy Metals): < 0.001 ppm(N.D.)
API度(比重): 45.0(超軽質)
水分・泥分: < 0.01%(N.D.)
「硫黄も、重金属も、検出されない……? そんな馬鹿な」
若手も絶句した。
原油(Crude Oil)は太古の生物の死骸が地熱で変成したものだ。
当然、硫黄や重金属、泥などの不純物が混じる。
だからこそ製油所には脱硫装置や、不純物除去のための巨大なプラントが必要なのだ。
これほど純粋な炭化水素の塊など、自然界には存在しない。
「まるで……実験室で合成されたみたいに綺麗だ」
「蒸留曲線も異常です。
ガソリン、ナフサ、灯油、軽油……すべての留分が黄金比で含まれています。
これ、本当に原油ですか?
どこかの国が作った『合成燃料』じゃないんですか?」
ラボ内が騒然とする中、背後のドアが開いた。
入ってきたのは日下部と数名のSPだ。
「……騒がしいですね」
日下部が冷ややかな声で言った。
「分析官、結果はどうなりましたか?」
「あいや……その……。
異常値が出まして、機械の故障かと……」
「故障ではありません」
日下部は分析官の手からレポートをひったくった。
数値を確認し、満足げに頷く。
「想定通りです。
この原油は特殊な微生物処理によって、地中で『一次精製』された状態のものです。
極めて純度が高い。
それだけです」
「び、微生物処理……?」
そんな技術が実用化されているなど、聞いたことがない。
分析官が反論しようとしたが、日下部の目がそれを封じた。
笑っていない目だ。
「皆さん。
今見た数値、およびこの原油の特異性については他言無用でお願いします。
ここは特定秘密取扱施設として指定されています。
家族にも、同僚にも、話してはいけません。
……違反した場合、特定秘密保護法違反および不正競争防止法違反により、刑事罰の対象となります」
民間企業の就業規則レベルの話ではない。
いきなり「懲役」をチラつかせる脅しだ。
その背後に控えるSPたちの腰には、膨らんだホルスターが見える。
「……分かりました。
『最高品質のスイート原油』が入荷した。
それだけですね」
分析官は脂汗を流しながら頷いた。
「結構です。
では直ちに精製プロセスへ回してください。
この最高品質の原油を、一滴も無駄にすることなく、ガソリンと軽油、そしてプラスチック原料に変えるのです。
……日本経済のために」
その夜、製油所の稼働率は、かつてない数値を記録した。
常圧蒸留装置(トッパー)に投入されたテラ・ノヴァ原油は、驚くべき効率で分離された。
脱硫工程が不要なため、スループット(処理速度)は通常の二倍。
触媒の劣化もなく、装置への負担も最小限。
出てくる製品——ガソリン、ジェット燃料、ナフサ——はどれもJIS規格を遥かに上回る純度を誇っていた。
「……魔法の油だ」
中央制御室で山崎所長はモニターを見つめて呟いた。
「こんなものが安定供給されたら、ウチの利益率は跳ね上がるぞ。
燃料油としての品質は最高だ。
環境規制も楽々クリアできる」
隣に立つ日下部も、モニターの数値を見ながら安堵のため息をついていた。
工藤創一がもたらした「黒い黄金」。
それが日本のインフラに適合し、莫大な富を生み出し始めた瞬間だった。
だが山崎所長は、ふと眉をひそめた。
モニターの片隅、ある副産物の回収率を示すグラフが地を這っていたからだ。
「……しかし、困ったことになったな」
「何か問題でも?」
日下部が緊張した面持ちで尋ねる。
「いや、贅沢な悩みなんだがね。
『硫黄』が全く取れないんだ」
「硫黄……ですか?」
「ああ。
通常、原油精製の過程では脱硫装置から大量の硫黄(サルファー)が回収される。
これが化学肥料や、タイヤのゴム薬品の原料として市場に出回るんだが……。
この原油は綺麗すぎて、硫黄が出ない」
山崎は苦笑した。
「燃料屋としては万々歳だが、化学薬品メーカーからは『原料が足りない』って悲鳴が上がるかもしれん。
完璧すぎるのも、考えものだな」
「……なるほど」
日下部は手帳にメモを取った。
『硫黄の不足』。
これは新たな課題だ。
テラ・ノヴァ側でも、創一が「硫黄処理(Sulfur Processing)」の研究を急いでいる理由が、奇しくも地球側の事情と合致したわけだ。
向こうでは「プラスチックと爆薬のために硫黄が必要」であり、こちらでは「化学産業のために硫黄が必要」。
いずれテラ・ノヴァで硫黄の生産——あるいは抽出——が必要になる日が来るだろう。
「山崎所長。
精製された軽油と重油の一部は、ドラム缶に詰めて『JG-01』に積み戻してください。
『現地』への補給物資です。
硫黄については……別途、対策を考えます」
「ああ、分かっている。
……しかし、一体どこで掘ってるんだか。
深海だって? へっ、宇宙の果てと言われた方が、まだ信じられるわ」
山崎は皮肉っぽく笑ったが、それ以上は追求しなかった。
技術者として、この美しい原油を扱える喜びの方が勝っていたからだ。
しかし、箝口令が敷かれているとはいえ、人の口に戸は立てられない。
「不純物ゼロの原油」
「魔法のような精製効率」
「硫黄が出ない」……。
現場の興奮と困惑は、小さな噂となって夜の闇に紛れ始めていた。
その噂が誰の耳に届くのか。
京葉工業地帯の煙突から吐き出される炎(フレアスタック)だけが、静かにその行方を見下ろしていた。
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