レイチェルは
マスターの言葉が
静かに終わると同時に
まるで目の前で
一瞬の手品を見たかのように
目を丸くした。
「すごいわ⋯⋯
本当に、何もかも当たってる!」
手にしたグラスを両手で包み込み
その冷たさに
指先が微かに震えるのを感じながら
小さく呟くように感嘆の声を漏らした。
「私、厨房に立つこともあるけど
香りとか⋯⋯
自分では全然分からなかったのに。
ね、ソーレンもびっくりでしょ?」
彼女が振り返ると
ソーレンは鼻を鳴らすように
軽く肩を竦めていた。
「⋯⋯ま、な。
俺らの中で一番鼻が利くのは
時也だと思ってたが⋯⋯
ここのマスターも中々のもんだ」
グラスの縁を指でなぞりながら
ソーレンはぼそりと呟くように言った。
するとマスターは
手にしていたクロスを
優雅に畳み直し
口元に静かな微笑みを浮かべた。
「お客様の日常を
ほんの少し覗かせて頂いただけです。
香りや所作は
人が紡ぐ歴史の一部ですから」
その言葉に
レイチェルは思わず
吹き出しそうになりながら
グラスの中の琥珀色を見つめた。
「〝覗く〟って⋯⋯
ふふ、怖い言い方。
でも、嫌いじゃないわ。
どこか物語みたい!」
「お前⋯そういうの好きそうだよな」
ソーレンが呆れたように言うと
レイチェルは悪戯っぽく笑って
肩を竦めた。
「だって
誰かの日常をちょっと覗き見るのって
面白いじゃない?
特に、アリアさんみたいに
滅多に何も言わない人のとかね」
名前を出すと同時に
何故かソーレンの視線がふと落ちた。
それはほんの一瞬で
すぐに彼はグラスに視線を戻していた。
「⋯⋯誰のでも
全部が面白いわけじゃねぇけどな。
特にあの女は⋯⋯」
「うん⋯⋯そうね」
レイチェルが言うと
マスターが静かに言葉を挟んだ。
「一杯の酒が
記憶を引き出すこともありますし
逆に、 心に蓋をすることもあります。
どう過ごすかは⋯⋯お客様次第です」
「じゃあ⋯⋯
今夜は、もう少し
心の扉を開けてみようかな!」
そう言ってレイチェルは
グラスの縁に唇を寄せた。
ほんの僅かな琥珀の熱が
胸の奥をくすぐるように
落ちていった。
そして
それはソーレンも同じだったのか——
ふと目が合ったとき
彼の視線は柔らかく
どこか照れたように逸れていった。
そんな空気に
マスターは何も言わず
ただ静かに二人のグラスに
氷を一つずつ落とした。
カラン——
と、響いた音が
どこか擽ったい沈黙を彩った。
⸻
「⋯⋯そろそろ帰るか」
「楽しいと
時間が経つの早いね!」
「またのご来店を
心よりお待ちしております。
ありがとうございました」
会計を済ますと
マスターがカウンターから出て
深い一礼と共に二人を見送る。
重厚な扉が静かに閉まり
鈍く重い音が店内に反響した。
その瞬間——
丁寧に見送りの姿勢を
保っていたマスターの顔から
柔和な笑みがすっと消える。
氷のように
研ぎ澄まされた眼差しだけが
微かな余韻を引き裂くように
鋭く光っていた。
「ソーレン⋯⋯レイチェル⋯⋯」
低く呟かれた名は
まるで古い呪文のように
空気の中で震えた。
「時也⋯⋯」
その名を口にした途端
胸の奥から込み上げてくるものを
掠れた声で押し出すように続ける。
「⋯⋯アリア⋯⋯っ」
指先が、微かに震えた。
冷たく
感情の温度を失ったような視線のまま
マスターは
ゆっくりとカウンターの裏へ
手を差し込む。
「⋯⋯あぁ
キミ達に、会えて⋯⋯良かったよ⋯⋯」
声は
まるで安堵と絶望を
同時に噛み締めるような深さだった。
そして——
指先が辿り着いたのは
静かに封じられていた黒革の鞘。
その中に眠る
長大な大太刀の柄に
マスターはそっと触れた。
キィ⋯⋯と
革と刃が擦れる僅かな音が
店内に響いた。
その手は
まるで失った時間を撫でるかのように
優しく⋯⋯
しかし確実に柄を握りしめる。
すると、マスターの姿が
まるで蜃気楼のように揺らぐ。
瞬間ー⋯。
其処にいたのは
先ほどまでの堂々とした
壮年のバーテンダーではなかった。
腰まである艶やかな黒髪が
緩く一つに纏められ
華奢な体躯が
ゆっくりと動き始める。
艶めかしいほどの
しなやかさを持つその姿は
マスターとはまるで別人で
若々しい青年のようだった。
長い前髪の隙間から覗く
アースブルーの瞳が
冷酷無慈悲に妖しく光る。
「⋯⋯次に、会う時が楽しみだね⋯⋯」
そう呟く声には
笑みも温もりも無かった。
ただ
凍りついたような静寂と
今にも燃え上がりそうな執着が
ひっそりと宿っていた。
カウンターの奥で
男の甲高い笑い声が響き渡る。
「——ッは、はは⋯⋯あはははっ!!
ああ、なんて滑稽だ。
嗤うしかないじゃないか⋯⋯っ!」
ひとつのテーブルに
届くか届かないかの
小さな音量だったはずの
その笑い声は
徐々に鋭く空間を裂くように冴え
確かに耳を打つ音だった。
だが——
誰一人、反応を示す者はいなかった。
革張りの椅子に体を預ける男は
変わらぬ表情でグラスを傾け
カウンターに肘をついた女は
琥珀色の液体を揺らしながら
小さく頬を緩める。
奥のボックス席では
数人の男女が笑い合い
何かの冗談に頷きながら
ワインを口にしていた。
それは、まるで——
その男だけが
異なる次元に在るかのようだった。
スタッフも同じだった。
カウンターを拭く者
グラスを磨く者
ドリンクを丁寧に運ぶ者——
誰も⋯⋯
嗤い声に 一切の関心を寄せていない。
まるでそこに
〝笑い声など聞こえていない〟
かのように
時間だけが静かに流れている。
男の肩が震える。
だがそれは
愉悦の笑いからなのか
怒りに打ち震えるものなのか
判別がつかない。
「⋯⋯ふふ、ふふ⋯⋯
この愚かな演劇に
よくもまぁ誰も気付かずに⋯⋯」
嗤い声は、低く、長く
染み入るように続く。
その声は
まるで硝子の内側に
閉じ込められたかのように——
誰にも届かない。
男の笑みの奥で
その眼差しだけが鋭く
どこまでも冷たく光っていた。
まるで
舞台の幕が上がるその瞬間を
ただ静かに待ち構えている
役者のように。
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