夜の街は
さっきまでの喧騒が嘘のように
静まり返っていた。
石畳を踏むヒールの音が
カツン、カツンと
一定のリズムを刻む。
その隣で
無言で歩くブーツの足音が
少しだけ速度を落としてついてくる。
レイチェルは
ちらりと横目でソーレンの横顔を見た。
さっきまで
BARでグラスを傾けていた
男とは思えないほど
無骨で飾り気のないその横顔に
ふと胸が疼く。
——いい夜だった。
映画も、食事も、お酒も。
でも、一番心に残ったのは——
この隣を歩いてくれる
その存在だった。
レイチェルは
ゆっくりと手を伸ばし
そっとソーレンの手に
自分の指を絡めた。
その手は少し冷えていて
けれど
ほんの少しだけ力を込めると
しっかりと返してくれる
温もりがあった。
「⋯⋯っ、ガキかよ、お前⋯⋯?」
突然の温もりに
ソーレンは眉を寄せて吐き捨てた。
それでも、手は振りほどかない。
むしろ
ぎこちなくも
握り返しているようにすら思えた。
レイチェルは
くすっと笑いを含んだ声で返した。
「〝大人〟よ?
一緒にお酒も飲んだでしょ?」
視線を交わすことなく
歩幅も変えずに
二人は歩き続けた。
でも
絡めた指だけが
まるで心の代弁をするように
静かに繋がれている。
その手の温もりが
この夜の終わりを
少しだけ名残惜しいものにしていた。
⸻
喫茶桜の居住スペースに戻ると
レイチェルは軽く伸びをして
ソーレンに一声かけた。
「じゃ、私
先にシャワー浴びてくるね!」
「ああ、ゆっくりしてこいよ」
レイチェルは
軽やかな足取りで
バスルームへと向かう。
その背中を見送ると
ソーレンはふっと息をつき
裏庭に向かった。
夜風が少し冷たく
肌を撫でる度に
酔いが少しだけ醒めるような気がした。
ポケットから煙草を取り出し
一本を唇に挟む。
ジッポをカチッと鳴らし
オレンジ色の炎で火を点けた。
深く吸い込んだ煙が
肺を満たし
ゆっくりと吐き出される。
白い煙が夜空に漂い
星の瞬きを曇らせた。
(⋯⋯ったく。
なんで俺なんかと
手を繋ぎたがんだよ⋯⋯?)
煙草を咥えたまま
ソーレンは掌をじっと見つめた。
レイチェルの柔らかい手の感触が
未だに指先に残っている気がする。
(なんだってんだよ。
モヤモヤしやがる⋯⋯)
煙草を持つ手が
少し震えていることに気付き
思わず舌打ちした。
「素敵なデートの時間を
過ごされたみたいですね?」
突然
穏やかな声が響き
ソーレンは驚きに肩を跳ね上げた。
振り向くと
時也が微笑を浮かべて立っている。
「⋯⋯おい、急に現れるなよ。
心臓止まるかと思ったじゃねぇか」
「申し訳ありません。
ちょうど
外の空気を吸いたくなりましてね」
時也も煙草を取り出し
軽く火を点けた。
「⋯⋯デートって⋯⋯
なんだよ、それ。
映画見て、飯食って
酒呑んだだけだろが」
ソーレンは
不機嫌そうに
煙を吐き出しながら問い返す。
その耳元が僅かに
赤くなっているのを
時也は見逃さなかった。
「一般的には
それを 〝デート〟と呼ぶのでは?」
「っ⋯⋯べ、別に
大したことじゃねぇよ。
アイツが行きてぇって言うから⋯⋯
付き合ってやっただけだ」
「ふふ⋯⋯そうですか。
でも、悪い気はしなかったようですね?」
「っ⋯⋯うるせぇ!
心を読むんじゃねぇよ、クソがっ」
ソーレンがそっぽを向いて
また一口煙草を吸い込む。
その仕草が、妙に落ち着きがない。
「彼女が
嫌いな訳では無いのでしょう?
むしろ
嫌いならそんなことしませんよ」
時也は微笑みを浮かべながら
夜空を見上げた。
その言葉に
ソーレンが煙を吐き損ね
思わず咳き込む。
「っ、げほっ⋯⋯!
なんで、そういう話になんだよ!ボケ!」
「⋯⋯ソーレンさん
貴方はずっと⋯⋯
誰かに愛されることに
慣れていないだけです。
自分を守る為に
拒絶することを⋯⋯
選んでしまっているのかもしれませんね」
時也は
ゆっくりと煙草の先を見つめる。
その火がゆらゆらと揺れ
夜風に煙が流れていく。
「⋯⋯愛を知る
良い機会かと思いますよ?」
「っ⋯⋯バカかよ。
俺に、そんなもん⋯⋯」
ソーレンは煙草を足元で踏み消し
時也に背を向けた。
それでも
耳に残る〝デート〟という言葉が
頭の中でぐるぐると回っている。
「ソーレンさん」
「なんだよ」
「⋯⋯自分から心を開くことも
時には大事ですよ?」
その柔らかい声に
ソーレンは無言のまま背を向け続けた。
握っていた手の感触が
どうしても頭から離れなかった。
「では⋯⋯おやすみなさい」
時也は静かに微笑んで
煙草を灰皿に押し付けた。
煙草の火が
じゅっと小さな音を立てて消える。
ソーレンはまだ背を向けたまま
黙っている。
時也はその様子を見て
ほんの僅かに眉を寄せたが
結局何も言わずに背を向けた。
「⋯⋯ソーレンさん
貴方が本当の意味で
心を許せる相手がいること⋯⋯
それが
僕にとっても安心できることなのです」
時也の声は穏やかで
どこか優しさが滲んでいる。
だが
その意味を測りかねたソーレンは
ただ不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「やれやれ⋯⋯
レイチェルさんが苦労しそうですね」
冗談めかしてそう言いながら
時也はゆっくりと裏庭を後にした。
その歩みが建物の陰に隠れた時
ふとその顔が僅かに曇る。
「⋯⋯貴方には、必要な事なんです。
貴方の命の為にも⋯⋯ね」
微かな呟きが、夜風に溶けて消えた。
ソーレンには
その言葉は一切届かず
ただ煙草の火を見つめていた。
火がじりじりと
燃え尽きていくその様子を眺めながら
頭の中はレイチェルのことばかりで
時也の去った足音すら
意識には入ってこない。
(なんだか⋯⋯変な感じだな)
普段なら
帰ってきたら
直ぐに眠りにつくのに——
今日は何故か妙に胸がざわつく。
煙草はいつの間にか
根元まで焼き切れていた。
指に残る温もりを意識してしまい
煙草をもう一本取り出して火をつける。
夜風が少し強まり
灰がゆらりと舞う。
それでも
ソーレンはただ無言で
煙草の火を見つめ続けていた。