テラーノベル
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教室に入った瞬間、喉の奥が詰まった。
朝の光は淡く、やわらかいはずなのに── 遥の頬に残る薄い赤い痕が、やけに鮮明に見えた。
それを見た誰もが、視線を逸らさない。 まるで、鑑賞するように。
「昨日の“演技”、マジで最高だったよな〜」
誰かが言った。笑いながら、遥の背を軽く叩く。
「ほら、ほら、今日もやってよ。ね?」
遥は何も言わない。 ただ、ゆっくりと振り返り、無言で笑った。
口角だけが上がる── それは、笑顔ではなかった。 「望まれることが何かわかってる顔」だった。
「……“どこ”がいい?」 静かに放たれたその言葉に、一瞬、教室が凍った。
「机の下? それとも……後ろの壁?」
誰も止めない。教師も来ていない。
そして、遥は制服のネクタイをゆっくり解いた。 何も言われていないのに、自分から“用意”する仕草。
(……やめろ)
声に出せなかった。 日下部の喉だけが、かすかに震えた。
(なんで、笑ってんだよ)
遥の指先が、机の縁をなぞる。 媚びでもない。拒絶でもない。 “差し出す”ようなその所作は──誰よりも残酷だった。
「……ちゃんと見ろよ」
遥が日下部にだけ言った。
「途中で目ぇ逸らしたら、……おまえが一番、興奮してるみたいだから」
ざわ、と誰かが笑った。 机が揺れた。椅子が軋んだ。
それでも遥は、ただ立っていた。
声は震えていない。 涙もない。
──ただ、完全に“その役”を演じ切っていた。
その姿が、悲惨なのに、完璧で、滑稽で、美しくて、
日下部は、そのすべてを否定できなかった。
(……こんなもん、知らない)
日下部の指が机の端を掴む。
(こんなの、見たことない)
けれど──見なければならないと、どこかで知っていた。
放課後の教室。机と椅子がずれているのは、昼の騒ぎの名残だ。だが誰も、片付けようとしない。
遥は、窓辺の影の中にいた。制服の裾が乱れている。ボタンがひとつ、消えている。喉元に赤い指の跡があるのは気のせいか。
数人が笑っていた。「やりすぎんなよ」──その言い方が冗談なのか本気なのか、もう誰も気にしない。
遥は笑っていた。小さく、口元だけで。目の奥はまるで光が届いていない。
言葉をかけた誰かに、わざとらしい甘え声を返す。
「もっとちゃんと見ててよ、せっかく“やってる”んだから」
ざわついた空気の中、日下部だけが、立ち尽くしていた。
声が出ない。足も動かない。
遥のその言葉が、“誰に向けての演技”だったのか。
いや──演技なんて、本当にまだ残ってるのか。
誰も止めない。
止められない。
あの笑顔の裏にあるものが、もう──
壊れているのか、それとも、壊れたふりなのかすら分からなかった。
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