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地下街の朝は遅い。
正確に言えば、朝という概念が曖昧だ。
地上の光はほとんど届かず、薄暗い天井の隙間から落ちる白い筋が、時間の流れをかろうじて教えるだけだ。
14か、15の頃だった。
俺はその日、いつもより早く目を覚ました。
理由は特にない。
ただ、胸の奥に奇妙な高揚があった。
――自分には、貴族の血が流れている。
そんな馬鹿げた考えを、俺は本気で信じていた時期がある。
根拠はほとんどなかった。
母親が時折、遠い目で「あなたは特別よ」と呟いたこと。
顔立ちが地下街の連中とは少し違うと言われたこと。
そして何より、この場所がどうしようもなく自分に似合わないと感じていたこと。
それだけだ。
だが、俺にはそれだけで十分だった。
薄汚れた水桶に映る自分の顔を覗き込む。
黒髪。鋭い目。
痩せた頬。
貴族、と呼ぶにはあまりに荒れている。
それでも、どこかが違うと、勝手に思っていた。
「……くだらねぇ」
小さく呟きながらも、完全には否定しない。
もし本当にそうなら。
この腐臭と湿気に満ちた地下街から、いつか抜け出せる理由になる。
血が証明してくれる。
そんな幻想を抱くほど、俺はまだ若かった。
通路に出ると、いつもの顔ぶれがいた。
賭け事に負けて怒鳴る男。
売れ残ったパンを抱えた女。
喧嘩を始めるガキども。
俺はその横を無言で通り過ぎる。
「リヴァイ、今日も盗みか?」
背後から声が飛ぶ。
振り返らずに答える。
「仕事だ」
盗みも、スリも、地下街では立派な“仕事”だ。
だが俺は、その言葉が嫌いだった。
貴族の血が流れている人間が、盗みを生業にしているはずがない。
そう思いたかった。
その日、俺は地上へ続く階段の近くまで足を運んだ。
普段は警備が厳しいが、今日は交代の時間らしく、人の気配が薄い。
石の階段を数段上る。
空気が変わる。
ほんの少しだけ、軽い。
胸がざわつく。
もし、あの上に自分の居場所があるなら。
ふと、想像する。
磨かれた床。
陽光が差し込む窓。
整った食卓。
綺麗な服を着た自分。
笑いかける使用人。
――馬鹿らしい。
頭を振る。
だが、想像は止まらない。
もしかしたら、俺は何かの間違いでここにいるだけかもしれない。
取り違えられた子ども。
追放された血筋。
物語のような筋書きが、頭を巡る。
そのとき、足音がした。
警備兵だ。
俺はすぐに階段を降り、影へ滑り込む。
「おい、今誰かいなかったか?」
「気のせいだろ。地下のガキが上がれるわけねぇ」
鼻で笑う声。
地下のガキ。
その言葉が、胸に刺さる。
俺は拳を握る。
違う。
俺は、ただの地下のガキじゃない。
そう思わなければ、やっていけなかった。
その日、俺はいつもより荒れた。
スリの動きは正確で、躊躇がない。
逃げ足も速い。
だが、心の奥はざらついていた。
奪った財布の中身を確認しながら、ふと思う。
貴族なら、こんなことはしない。
なら、俺は何だ。
血がどうであれ、今の俺は地下街で生きるしかない。
夕方、薄暗い通路の壁にもたれかかる。
天井の隙間から落ちる光が、少しだけ強くなっていた。
手を伸ばす。
届かない。
光は、いつも少し遠い。
「……貴族、か」
自嘲が漏れる。
もし本当にそうなら、誰かが迎えに来るはずだ。
だが、来ない。
来るわけがない。
この世界は、そんなに都合よくできていない。
それでも、俺はその幻想を捨てきれなかった。
血が違うと思うことで、自分を保っていた。
それが、地下街の泥に沈まないための薄っぺらい俺の盾だった。
夜、寝床に横たわる。
湿った布の匂いを吸い込む。
遠くで怒鳴り声がする。
目を閉じると、昼間の光が浮かぶ。
もし、あの上に行けたら。
本当に血が違うのなら。
俺は、何になる。
兵士か。
商人か。
それとも、本当に貴族か。
想像は、やがて疲労に溶ける。
現実は変わらない。
明日もまた、盗み、走り、殴る。
それが俺の生活だ。
だが、胸の奥の小さな火は消えなかった。
自分はここで終わる人間じゃない。
その根拠のない確信が、俺を支えていた。
後になって思えば、血筋なんてどうでもよかった。
必要だったのは、言い訳だ。
自分は特別だと信じる理由。
地下街で腐らないための理由。
あの日の俺は、まだ知らない。
本当に自分の血が何なのかも、
自分がどこへ向かうのかも。
ただ、暗闇の中で光を睨みつけていた。
14か15の、未熟な少年が。
貴族の血を夢見ながら、
泥だらけの手で明日を掴もうとしていた。