テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
ちょっと日本語がおかしいです。太宰の恋が報われないです。ごめん。
ヨコハマの風は、季節が移り変わる匂いを運んでくる。かつては血と硝煙、そして潮騒の混ざり合った死の香りがこの街を支配していたが、今の太宰治が呼吸する空気は、驚くほど澄んでいた。
二十二歳。武装探偵社に入社して数年が経ち、太宰は日常という名の、退屈で穏やかな安らぎに慣れつつあった。しかし、その「穏やかさ」を真っ向から破壊する出来事が、ある火曜日の午後に訪れた。
「太宰、君に客だ。ポートマフィアの……中原幹部が来ているぞ」
国木田の声に顔を上げると、そこにはいつもの黒い帽子を被り、不敵な笑みを浮かべた旧友の姿があった。しかし、その笑みはいつもとどこか違う。鋭利なナイフのような攻撃性が影を潜め、代わりに、内側から滲み出るような柔和さがその表情を縁取っていた。
「やぁ、中也。マフィアの幹部が探偵社に乗り込んでくるなんて、明日はヨコハマに槍でも降るのかな? それとも、ついに背が縮みすぎて誰かの助けが必要になったかい?」
太宰はいつもの調子で軽口を叩いた。しかし、中也は怒鳴り散らすことも、重力で机をひっくり返すこともなかった。ただ、所在なげに頭を掻き、視線を泳がせた。
「……あァ、そうだな。槍でも降るかもな」
その一言で、太宰の胸にざらりとした違和感が走る。 中也はポケットからスマートフォンを取り出し、画面を太宰に向けた。そこに映っていたのは、夕暮れの公園で、中也と並んで微笑む一人の女性だった。派手さはないが、日向のように温かそうで、どこか古風な、芯の強さを感じさせる瞳。
「……誰だい、この女性は。中也の新しい部下? それとも、迷子の保護でも始めたのかい?」
「……俺の、恋人だ」
中也の声は低く、けれど確かな熱を帯びていた。 「あいつ、マフィアの仕事なんて何も知らねぇ。ただのパン屋の店員だ。……俺、あいつと一緒にいると、自分がただの人間だって思えるんだよ。殺戮の化身でも、汚濁の器でもねぇ……ただの中原中也だってな」
太宰の心臓が、一拍分、跳ねるのを忘れた。 脳内の演算回路が激しく火花を散らす。中也が求めていたのは、自分という「暗闇の同類」ではなかったのだ。彼が心の底から渇望していたのは、朝食の匂いがして、洗濯物が風に揺れるような、白日の下の幸福だった。
「……へぇ。素晴らしいね。中也にそんな『まともな』趣味があったなんて。おめでとう、とでも言えばいいのかな?」
太宰の唇は、完璧な偽物の笑みを形作った。心臓の奥が、冷たい氷の棘で刺されたように痛む。それは、かつて数多の傷を負った時よりも、ずっと鋭く、逃げ場のない痛みだった。
「ああ、ありがとな。……お前にだけは、先に言っておきたかったんだ」
中也は満足げに頷き、背を向けて去っていった。その足取りは軽く、彼を縛る重力さえもが、今や彼を祝福しているように見えた。 太宰は一人、事務机に残される。窓から差し込む西日が、あまりにも眩しかった。
(知っていたはずだ。私たちは、決して日向で手を繋げるような関係じゃない。……でも。それでも、君を日向に連れて行くのは、私だと思っていたんだよ、中也)
太宰は机に突っ伏した。 届かないと分かっているからこそ、隠し続けてきた恋心。それが今、中也自身の「幸福」という最も残酷な武器によって、音もなく粉砕された。
中也が「彼女」との交際を宣言してから、数ヶ月が経った。 その間、太宰は一度も中也と酒を酌み交わしてはいない。任務の連絡事項はすべて事務的なメールで済ませ、偶然ヨコハマの街角で見かけそうになれば、路地裏へ身を隠した。
逃げている。自分が、自分自身の醜い執着から。
しかし、運命という名の神様は、太宰治という男をどこまでも嘲笑うのが好きらしい。ある金曜日の夜、太宰は福沢社長から預かった親書を携え、ポートマフィアの「表向き」の息がかかった高級レストランへ足を運んでいた。そこで、彼は見てしまったのだ。
窓際の特等席で、小洒落たスーツに身を包んだ中也と、その向かいで慎ましやかに微笑む一人の女性を。
「……あぁ、神様。君は本当に性格が悪いね」
太宰は踵を返そうとしたが、運悪く中也と目が合ってしまった。中也は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに破顔し、隣の女性に何かを囁くと、太宰に向かって大きく手を振った。
「おい、太宰! こんなところで何してやがる、こっち来いよ!」
逃げ場はなかった。太宰は頬の筋肉を数ミリ単位で調整し、完璧な「武装探偵社の太宰治」としての仮面を貼り付けた。軽やかに、けれど心臓が泥を吐くような重みを感じながら、二人のテーブルへと近づく。
「やぁ、中也。愛の巣を覗き見する趣味はないのだけれど、君の放つ幸せのオーラが眩しすぎて、つい引き寄せられてしまったよ」
「はっ、相変わらず口の減らねぇ奴だ。……紹介する。俺の婚約者の、『夢子(ゆめこ)』だ。夢子、こいつが俺の元相棒で、今は腐れ縁の……太宰だ」
中也の隣で、夢子と呼ばれた女性が丁寧に頭を下げた。 「初めまして、太宰様。中原さんからはいつもお話を伺っております。とても、……とても大切なご友人だと」
彼女の瞳は澄んでいた。太宰がこれまで出会ってきた、裏社会の毒に染まった女たちとは正反対の、濁りのない善意。その清らかさが、太宰には毒よりも痛かった。彼女の名前は「夢子」。文字通り、中也が見ている穏やかな「夢」の体現者。
「……初めまして、夢子さん。噂以上の美人だね。中也にはもったいないくらいだ。……これでもう、このチビが夜道で寂しくて泣くこともなくなると思うと、私も肩の荷が下りるよ」
太宰は流暢に言葉を紡ぐ。声は震えず、表情は晴れやか。 けれど、テーブルの下で握りしめた拳は、爪が掌に食い込んで血が滲んでいた。
「あはは! 夢子、こいつの言うことは全部デタラメだからな。信じるなよ」
中也は夢子の肩を抱き寄せ、心底幸せそうに笑った。その中也の瞳に映っているのは、太宰という共犯者ではなく、自分を「普通」の世界へ繋ぎ止めてくれる夢子という名の光だった。
「……おめでとう、中也。そして夢子さん」
太宰はグラスを持っていた中也の手を取り、その甲にそっと自分の手を重ねた。祝福のポーズ。けれど、その指先は一瞬だけ、中也の肌に深く刻まれるほど強く触れた。 「君の人生が、これから先、退屈で、穏やかで、そして……私という異物が入り込む余地もないほど幸福であることを、心から願っているよ」
それは、太宰治が一生をかけて吐いた、最も美しく、最も残酷な「嘘」だった。
「サン指、太宰。……お前も、早くいい奴見つけろよ」
中也の屈託のない言葉が、太宰の心にトドメを刺す。 太宰は「善処するよ」と笑い、二人に背を向けた。 店を出た瞬間、凍てつく夜風が太宰を包む。肺が焼けるように熱い。
太宰は、中也の手の温もりが残る自分の指先を、狂おしいほど強く噛んだ。 「……おめでとう、中也。……さようなら、私の世界」
雨も降っていないのに、視界が酷く歪んでいた。
中原中也の結婚式は、ヨコハマの海を一望できる大聖堂で執り行われた。 雲一つない快晴。皮肉なほどに澄み渡った空は、新郎の瞳と同じ色をしていた。
太宰治は、着慣れない礼服に身を包み、参列者の席に座っていた。周囲はマフィアの関係者と、夢子の親族、そして武装探偵社の面々。かつて銃火器を向け合った者たちが、今日ばかりは「祝福」という名の下に、偽りの平和を享受している。
パイプオルガンの音が鳴り響き、扉が開く。 そこには、純白のドレスを纏った夢子と、その隣で胸を張って歩く中也の姿があった。
「……あぁ、眩しいね」
太宰は誰にも聞こえない声で溢した。 中也のタキシード姿は、驚くほど凛々しく、そして似合っていた。彼はもう、血に汚れた黒い外套を必要としていない。彼の肩にかかっているのは、隣を歩く女性の未来という、重くも幸福な責任だった。
誓いの言葉が交わされ、指輪が交換される。 太宰は、中也が夢子のベールをめくり、優しく口づけをする瞬間を、瞬きさえせずに見つめていた。その瞳は、網膜にその光景を焼き付け、二度と消えない呪いとして刻もうとしているかのようだった。
やがて、披露宴が始まり、ついに「友人代表」としての挨拶を求められる時間がやってきた。
太宰はグラスを置き、静かに立ち上がった。会場中の視線が集まる。新郎席の中也は、どこか居心地が悪そうに、けれど期待を込めた瞳で太宰を見ている。
「……ご紹介に預かりました、武装探偵社の太宰治です。中也――中原君とは、数え切れないほどの夜を共にし、時には互いの命を預け合ってきた……と言えば聞こえはいいですが、実際は、彼の犬のようにこき使われる毎日でした」
会場に小さな笑いが起きる。中也も「ふざけんな」と口の形だけで笑った。
「彼は短気で、横暴で、帽子を脱ぐと驚くほど背が低い。ですが、誰よりも真っ直ぐで、裏切りを知らず、信じたもののために命を懸けられる男です。そんな彼が今日、自らの『重力』を捧げる場所を見つけたこと……それを、旧友としてこれ以上の喜びはありません」
太宰は言葉を区切り、中也と真っ直ぐに目を合わせた。 今、この瞬間だけは、仮面の奥の本心を一滴だけ、言葉に滲ませる。
「中也。君はかつて、戦場こそが自分の居場所だと言ったね。けれど、それは間違いだった。君が本当に居るべき場所は、誰かが作った温かい食事があり、名前を呼べば微笑んでくれる人がいる、この日向の世界だったんだ。……夢子さん。どうか、この不器用な男を、この先ずっと、退屈で平凡な幸福の中に閉じ込めてあげてください」
太宰はグラスを掲げた。
「二人の歩む道に、私のような影が差すことのないよう。……君たちの未来に、乾杯」
大きな拍手が湧き起こる。中也は少しだけ目元を赤くし、力強く頷いた。 太宰は席に戻り、一気に冷えたシャンパンを飲み干した。喉を焼く刺激が、胸の奥の叫びをかき消してくれるのを待った。
(中也。君を愛していたよ。……君がそれを一生知らず、私の言葉をただの『友人の祝辞』として受け取ってくれること。それが、私が君に捧げる最後の、そして唯一の真心なんだ)
披露宴の終盤、太宰は誰にも告げずに会場を後にした。 潮風の吹くテラスへ出ると、遠くでヨコハマの汽笛が鳴っていた。
ポケットには、夢子が投げたブーケから零れ落ちた、一輪の白い薔薇。 太宰はそれを海へと投げ捨てた。 白い花びらは、中也の人生から自分が脱落したことを象徴するように、暗い波間に飲み込まれて消えた。
中也の結婚式から数ヶ月が経った。ヨコハマはすっかり冷え込み、街行く人々は厚手のコートに身を包んでいる。
武装探偵社のソファで、太宰治は死んだ魚のような瞳で天井を眺めていた。中也がいなくなった世界は、驚くほど静かで、驚くほど色のない場所だった。
「太宰。いい加減にしろ。いつまで幽霊のような顔をしている」
国木田が書類の束を机に叩きつける。その隣で、与謝野が面白そうに、一通の封筒を太宰の鼻先に突き出した。
「太宰、あんたに見合いの話だよ。福沢社長の知人の令嬢だ。家柄も性格も申し分ない。あんたのその腐った根性を叩き直すには丁度いいんじゃないかい?」
太宰は力なく笑った。 「お見合い……。いいよ、面白そうだ。今の私なら、誰の隣にいても同じだからね」
その言葉の裏にある「中也以外なら誰でもいい」という猛毒のような虚無に、与謝野は一瞬眉をひそめたが、太宰は既にいつもの胡散臭い笑顔を貼り付けていた。
見合いの当日。場所は、かつて中也が夢子と食事をしていたあのレストランだった。
相手の女性は、確かに完璧だった。名は「栞(しおり)」。落ち着いた紺色の振袖を纏い、太宰の冗談にも淑やかに微笑む、まさに日向の世界の住人。
「太宰様、……私、貴方のようなお噂のある方にお会いできて、光栄です」
「噂? ろくなものではないよ。私はただの、死に損ないの道化さ」
太宰は完璧なエスコートをし、完璧な会話を演じた。けれど、彼の脳裏にあるのは、栞の微笑みではなく、この店で見た、中也が夢子に向ける「本物の」笑顔だった。
(中也、君は今、何をしているのかな。もう夕食の時間だ。君の奥さんは、今日もシチューを作っているのかい?)
その思考が、今の自分には「不倫」よりも質の悪い裏切りであるように思えて、太宰は吐き気を感じた。
「太宰様……?」
栞が不安そうに首を傾げる。太宰は、彼女の手を優しく取った。その肌は温かい。けれど、中也の、あの戦いの中で何度も握った、熱くて硬い掌とは何もかもが違った。
「栞さん。君は、私といても幸せにはなれないよ」
太宰の声は、驚くほど低く、冷たかった。
「私はね、心の中に大きな穴が空いているんだ。そこには、もう誰の手も届かない。……私は、一生かけて一人の男の幻影を愛し続け、その男が忘れていった『しあわせ』を、外側から眺めて生きていく呪いにかかっている」
栞の顔から色が消える。太宰は構わずに、呪文のような言葉を続けた。
「君は、私の隣で、誰か別の人の名前を叫び続ける私の心臓を、愛せるかい?」
太宰は立ち上がり、伝票を手に取った。 「……失礼。この食事代は私が持つ。君には、もっと真っ当な……そう、中原中也のような男との出会いがあることを祈っているよ」
レストランを出ると、夜風が吹き荒れていた。 太宰は、ポケットの中にある一通の手紙を握りしめる。それは、結局中也に渡すことのなかった、血と涙のインクで綴られた「届かない祝辞」だった。
太宰はそれを、ヨコハマの暗い海へと放り投げた。 「……あぁ、寒いね。中也」
自分に合う人なんて、初めからいなかった。 太宰治は、中原中也という重力から弾き飛ばされた後も、その引力の圏外で、永遠に彼の周りを回るだけの、名もなき衛星でしかなかったのだから。
中原中也に第一子が誕生したという報せが届いたのは、春の嵐がヨコハマを濡らす、ひどく湿った日の午後だった。
「おめでとう、中也」
太宰は、手の中のスマートフォンを消灯し、暗い画面に映る自分の顔を眺めた。そこには、祝福を口にする友人の顔ではなく、すべてを諦め、空っぽになった幽霊がいた。
明日は、中也の家でささやかな「お祝い」が開かれるはずだった。夢子さんと、新しい命と、そしてかつての仲間たちに囲まれて、中也は人生で最も誇らしい笑顔を見せるのだろう。
けれど、その円卓に太宰治の居場所はない。 太宰は、クローゼットの奥から、あの日、中也の結婚式に開けるはずだったヴィンテージのワインを取り出した。結局、中也に贈ることも、二人で分かち合うこともできなかった呪いの滴。
太宰はそれを一気に煽り、空になった瓶をゴミ箱へ投げ捨てた。
「……あぁ、本当に。もう、いいかな」
太宰は砂色のコートを羽織り、夜のヨコハマへと歩き出した。 向かう先は、かつて二人が「双黒」として何度も駆け抜けた、あの埠頭だ。
雨は激しさを増し、視界を白く染め上げている。 かつてなら、こんな夜に太宰が姿を消せば、中也は怒鳴り散らしながら重力で街を破壊し、太宰の襟首を掴んで引きずり戻してくれただろう。
『死にたきゃ勝手に死ね、だが今じゃねぇ!』
そう言って、何度も何度も、地獄の縁から自分を救い上げた掌。 けれど、今のあの中也の温かな手は、小さな赤子の指を握り、愛する妻の肩を抱くためにある。 もう、ドブネズミのような太宰治を救うために割かれる「重力」など、この世界には一滴も残っていないのだ。
太宰は、荒れ狂う海を見下ろす岸壁の縁に立った。
「中也。……君に、最後のお祝いを送るよ」
太宰はスマートフォンを取り出し、震える指でメッセージを打ち込んだ。
『好きだった。おめでとう。』
送信ボタンを押した瞬間、太宰は端末を海へと投げ捨てた。 光る画面が闇に飲み込まれ、中也の手元に届くであろうその一言が、太宰治という存在がこの世に遺す、最後の真実となった。
もう、中也は来ない。 携帯が鳴っても、彼はきっと、眠る我が子を起こさないようにそっと画面を確認し、一瞬だけ悲しげに眉をひそめてから、再び幸せな夢の中へ戻るだろう。
それでいい。 それが、太宰が望んだ「中也のしあわせ」なのだから。
「さようなら、私のたった一人の重力」
太宰は微笑んだ。その表情は、二十二年の人生の中で最も穏やかで、そして空っぽだった。 一歩、踏み出す。
冷たい水が、肺を、視界を、そして燃えるような恋心を塗り潰していく。 沈んでいく意識の中で、太宰は最後に見た。 あの日、夕暮れの公園で笑っていた、日向のような中也の幻を。
太宰治は、中原中也の「しあわせなはなし」から、自らそのページを切り取った。 物語は続く。 彼がいない、光に満ちた明日へと。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!