テラーノベル
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視線は渦を巻き
ざわめきは波紋のごとく膨張し
ついには一点へ収束した。
白亜の壁面に射す昼光が群衆の眼差しを研ぎ
石畳をかすめる風は
刃の背をひやりとなぞる。
誰もが呼吸を浅くし
しかし誰もが見逃せなかった──
いま、この街路の只中で
命の天秤が音もなく傾きかけていることを。
(はぁ……視線が煩わしいな。
だけど──
せっかく凝集した群衆という資源だ。
だったら〝有効活用〟しておくべきだよね)
アラインは微笑の縁だけを上げ
神父として、また慈善実業家としての口調で
男だけでなく
通り全体に向けて澄んだ声を投げた。
「キミの仲間は懐柔されたわけじゃない。
人身売買なんて下卑た稼業から手を引いて
神に悔い改め
自分の手で慈善へ舵を切った。
それだけ。
今ならまだ──
キミも赦されると思うけど?」
「のぼせ上がって講釈垂れてんじゃねぇ!!
この女も、てめぇも──ぶっ殺してやる!」
男の手元で光が反転する。
刃は逆手へと握り替えられ
桃色の翼を翻すルキウスを一閃で払うと
そのままアビゲイルの胸元へ
一直線に落ちてきた。
喉元の冷たさが一瞬緩み
代わりに
心臓の真上に重い死の指先が触れる。
アラインのアースブルーがわずかに見開かれ
唇の端が好奇に吊り上がる。
彼はただ動かないのではない。
動けるのに──動かない。
格下の暴漢など
人質がいようとどうとでもできる。
いま彼が天秤にかけているのは
別の値だ──
時也の眷属たる桃色の鳥が
どこまでやれるのか。
その力量と、見せ方。
迫る刃に
アビゲイルは反射で眼をきつく閉じた。
その瞬間だった。
「危険因子排除、術式を展開──」
空から滑降してきた
ルキウスの小さな腹面に
縦の細い線がすうっと走る。
次の鼓動で、線はぬらりと割れ
夜の底から
黒薔薇が息をひそめて開くような
底なしの暗い裂け目が覗いた。
音はない。
けれど、不穏は香りを伴って広がる──
鉄でも土でもない
記憶の底に沈む春の匂い。
花の芯から
かさかさと乾いた囁きのように
無数の桜の枝が
蛇群さながらに噴き出した。
一本、二本、十本、幾十本。
艶のない小枝が節ごとにうねり
瞬時に男の関節へ絡みつく。
手首、肘、肩、喉、腰──
枝の節が節を極め
関節を逆に締め上げるたび
骨の奥で砂利が噛み合うような
無慈悲な手応えが走った。
刃は手からこぼれ
石畳へ乾いた音を落とす。
桜枝は問答無用に獲物を引き剥がし
アビゲイルの体から暴力の重さを引き離すと
そのまま裂け目へ引き摺り込むように
ずるり、ずるりと瞬く間に引き寄せた。
男の喉から上ずった悲鳴が上がる──
が、甲高い最初の一拍を残して
音は裂け目の向こうへ吸いこまれ
途絶える。
群衆のざわめきだけが
ひとつ遅れて帰ってきた。
昼の光は同じまま、影だけが温度を失い
通り全体が薄く震える。
「きゃああああああっ!!
ルキウス!
ぺっ……ぺっしてくださいまし!!
お腹を壊しますわ!!」
アビゲイルの慌てぶりに
アラインは額へ手を当てた。
「ああもう、バカ娘。
問題はそこじゃないでしょ。
見ろよ、この視線の海。
公衆の面前で
派手すぎる演出をしてくれたね?
⋯⋯まあ
ボクが見たかったせいでもあるけどさ」
指先で鋭く弾くようにパチンと鳴らし
声色を冷やす。
「おい、バカ鳥。
人気のないところに移動する。
今すぐだ」
言い終えるやいなや
アラインの足が石畳を柔らかく蹴った。
白壁の影が一歩分だけ跳ね
その一歩が疾走へと反転する。
次の瞬間には
彼の腕がアビゲイルの腰をすくい
軽やかに抱え上げていた。
風の筋がふた筋、三筋と伸び
黒鉄の手摺と白亜のモールディングが
連続する回廊のように後ろへ流れていく。
「了解。退避経路を案内いたします」
桃色の翼が小刻みに空気を叩き
ルキウスが先導する。
通りの視線はなお彼らの背を追うが
刃の冷たさは
完全にアビゲイルの喉元から消えていた。
肌に遅れて戻ってくるのは、自分の脈だけ。
震える指で喉元を押さえ
彼女は肺の底まで息を入れる。
抱えられた腕の中で見上げれば
アラインの横顔があった。
冗談を纏うときの悪戯めいた笑みはなく
ただ前だけを見る
冷たい計算と固い意志の線。
胸の内側で
抑えていたものが膨らもうとする。
熱は容易に膨張し
祈りはすぐにも形になりたがる。
だが、彼女はそれを
両手で包みこむように沈めた。
(あぁ、いけませんわ、アビゲイル⋯⋯。
ここで加護を暴走させては──
今度こそ、誰も傷つけないために)
アラインはアビゲイルを両腕に抱きかかえ
まるで舞台上の役者が
動きを寸分違えず制御するかのように
石畳を蹴って駆け抜けていた。
その歩幅は、風を裂く獣のごとく広く速い。
だが不思議なことに
その腕に抱かれた少女には
一切の衝撃が伝わらない。
骨と筋肉の連動は計算され尽くし
胸郭の上下にすら余計な揺れはなかった。
彼の動きは流麗な剣舞のようであり
速度の果てにこそ見出される静謐が
そこにはあった。
先導するルキウスは
桃色の羽を震わせながら律動を刻み
街路の上空を導く灯火のように舞っていた。
だが、その羽ばたきが
ひと呼吸分だけ乱れたとき
軌跡は突如として逸れ
陽光を散らす翼は
白壁に淡い影を震わせながら
細路から大きな通りへと向きを変えた。
まるで
見えぬ糸に引かれるかのような唐突な変化に
アラインのアースブルーが苛立ちを孕む。
彼の口から鋭く吐き出される叱責は
乾いた石畳の空気を切り裂いた。
「おい!
そっちはメイン通りに出ちまうだろ!
ボクは人気の少ない道を選べって
念押ししたよね!?」
しかし
ルキウスはその声を意にも介さぬ様子で
羽ばたきを強め
桃色の軌跡を陽光の中に伸ばしていく。
アラインは奥歯を噛み
内心で舌打ちを飲み込んだ。
だが即座に思考を巡らせ、結論を出す。
(時也の眷属だ。
派手な真似はするが、愚かでは無い⋯⋯
仕方ない──従うか)
やがて大きな通りへと飛び出した瞬間
空気の流れが一変した。
昼下がりの光に染められた街路に
藍染の袂が凛とした弧を描いて現れる。
風に閃くその衣は
夜の底を思わせる深い色を宿し
腕を差し伸べる所作は
一切の無駄を持たなかった。
ルキウスはその腕を見た途端
引力に落ちる星のように吸い寄せられ
爪先の角度ひとつ乱さぬまま舞い降りる。
桃色の翼が微かに揺れ
その小さな身体は
創造主の腕の上に静かに留まった。
「⋯⋯やはり
時也様の気配でございましたか」
濃藍の着物に身を包むその人物──
櫻塚時也。
彼の腕に収まったルキウスは
羽毛を伏せるように頭を垂れ
恭しく敬意を示した。
時也は少しだけ視線を弛め
掌で逆立つ羽毛をそっと撫でて整える。
その仕草には厳しさの中に
不可思議な温かみがあり
ただそれだけで
場の緊張を一段やわらげる力があった。
「ルキウス⋯⋯
おや?それに、アラインさん」
そして鳶色の眼差しが
すぐにアラインへと移る。
時也の瞳がわずかに見開かれ
その奥で光が揺らめいた。
視線の先
アラインの腕に抱かれているのは
蒼ざめた顔のアビゲイルだった。
「──アビゲイルさん!
お加減が、悪いのですか!?」
呼びかけと同時に時也は歩を早める。
石畳を擦るような裾の音に続き
ソーレンが背後から現れ
紫煙を吐きながら歩調を合わせた。
アラインは肩を竦め、声を荒げる。
「時也、ソーレン!
全く、このポンコツ鳥⋯⋯
時也が近くに来てるなら
先に知らせなさいっての!」
「不首尾、痛恨に存じます。アライン」
ルキウスの声が深く響き
彼は翼を畳んだまま静かに頭を下げる。
「時也様⋯⋯
恐ろしゅうございました──っ!」
アビゲイルはその顔を見た途端
堰が切れたように嗚咽を洩らした。
頬を伝う涙は、抱きかかえる腕の中で揺れ
白い指先を濡らす。
時也は優しく微笑み
その涙を指で拭い取った。
指先で前髪を整え
乱れた呼吸を受け止めるように近くに立つ。
その表情は柔らかだが
その眼差しは
事態を見抜く鋭さを帯びていた。
「はぁ⋯⋯。
ボクの腕の中で泣かないでくれるかな⋯⋯
ボクが泣かしたって思われるだろ?
とりあえず、人気のない所へ行こう。
どうせ状況は
その鳥を通じて理解できるんだろ?」
アラインは不機嫌そうに吐き捨て
額にかかる黒髪を払った。
時也は頷き、静かにアビゲイルへ囁く。
「えぇ。概ね、把握しました。
アビゲイルさん⋯⋯
どれほど恐ろしかったことか⋯⋯
良く、耐えられましたね。
そしてアラインさん
彼女の危機をお救いくださり
感謝いたします」
「なんだ。
俺はてっきり──
お前が泣かせた犯人だと踏んでたんだがな?」
ソーレンが低く嘲るように呟き
口の端を吊り上げる。
煙草の煙を斜め上へ吐き上げ
鍛え上げられた肩をすっと張ると
その身体は自然に盾のように広がり
往来から突き刺さる視線を受け止める。
彼の目つきは刃の背を思わせ
一瞥をくれるだけで
好奇心に燃え立った者たちの視線は
糸が断たれるように逸れていった。
人々は道端に退き、ただ息を潜める。
時也は改めて声を低く整え、指示を下した。
「では、行きましょう。
僕がルキウスと視覚共有して
監視カメラの死角へと先導いたします。
ソーレンさんは最後尾を。
念の為、追跡者に警戒してください」
言葉は凛としていた。
その声に従い
一行は石畳を踏み分けて進む。
時也が鳶色の眼差しを半ば閉じ
ルキウスの視界と重ねる。
瞬間、彼の意識には
街角に潜む黒い眼の配置が
幾何学的な図式のように描き出され
どこに盲点があり
どこを抜ければ良いのかが
直感的に浮かび上がる。
彼の歩みは迷いなく
白壁と鉄柵の間を選び
屋根の陰や街灯の影を縫うように進んでいく
その姿を追うアラインの足取りは
速くとも静かであり
抱えられたアビゲイルの呼吸も
次第に整っていく。
背後を歩むソーレンは
あえて足音を響かせた。
響きは低く硬く
追跡を試みる者にとっては
明らかな警告であり
刃を鞘に戻す音にも似ていた。
時折
紫煙を吐き捨て、通行人の視線を払う。
その仕草ひとつで路地の空気は張り詰め
誰もが無意識に視線を逸らす。
やがて三人と一羽は
監視カメラの網の目を抜け出し
影が濃くなる狭路へと姿を隠していった。
人々のざわめきは遠のき
代わりに聞こえるのは石畳を踏む音だけ。
その足音の下で
昼の光はなお白々と街を照らし続けていた。
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