病院の待合は、妙に落ち着かん空気やった。
人の気配はあるのに、音が少ない。
北信介は椅子に深く腰掛けることもせず、背筋を伸ばして座っていた。
時計を見る。
まだや。
「……大丈夫や」
そう言い聞かせるように呟く。
🌸は強い。
ちゃんと準備もしてきた。
頭では分かっている。
それでも、胸の奥がざわつく。
これまで、試合でも仕事でも、
「やるべきことをやる」だけでよかった。
結果は後からついてくると信じてきた。
けど今日は違う。
自分がどれだけ整えてきても、
🌸がどれだけ頑張っても、
この瞬間だけは、祈ることしかできへん。
無意識に、手を組む。
指先が少し冷たい。
「……無事で」
それだけは、どうしても口に出してしまった。
廊下の奥から、かすかに音がした。
最初は気のせいやと思った。
次の瞬間、
はっきりと、赤ちゃんの泣き声が響いた。
「……っ」
胸が一気に詰まる。
息の仕方を忘れたみたいに、喉がひくっと鳴った。
看護師がこちらに向かって歩いてくる。
「お父さんですね。おめでとうございます」
その言葉で、足が少し震えた。
「母子ともに、元気ですよ」
「……ありがとうございます」
声が、思ったより柔らかかった。
自分でも少し驚く。
病室の扉を開けると、
ベッドの上で🌸がこちらを見て、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見ただけで、
胸の奥に溜まっていたものが、すっとほどける。
「……よう頑張ったな」
それだけで精一杯やった。
「しんちゃん……」
🌸の声は少しかすれていたけど、優しかった。
「ほら」
差し出された腕の中。
小さな、小さな命。
「……この子が……」
言葉が続かん。
赤ちゃんは小さく口を動かして、
眠たそうに眉を寄せている。
「抱っこ、する?」
🌸にそう言われて、
信介は一瞬だけ、ためらった。
「……俺でええんか」
「当たり前でしょ」
その一言に、少しだけ笑って、
慎重すぎるくらいの動きで腕を伸ばす。
思っていたより、軽かった。
でも、確かに“重み”がある。
腕の中で、赤ちゃんが小さく身じろぎする。
「……」
自然と、声が低く、優しくなる。
「大丈夫や。ここおる」
誰に教わったわけでもないのに、
そんな言葉が口から出た。
赤ちゃんの手が、信介の指をぎゅっと掴む。
「……っ」
その瞬間、目が熱くなる。
「……あかんやろ」
小さく笑いながら、誤魔化すように呟く。
「こんなすぐ、心掴まれるとは思わんかったわ」
🌸が、静かに微笑んでいた。
「もう、立派なお父さんだよ」
「……まだや」
そう言いながらも、
腕に込める力は、さっきよりずっと優しかった。
「なあ」
赤ちゃんを見つめたまま、信介が言う。
「俺、不器用やし、
言葉も多ないし、
甘いこともあんま言えへん」
🌸は黙って聞いている。
「けどな」
少し間を置いて、続ける。
「この子にとって、
ちゃんと帰る場所になる
毎日、当たり前を積み重ねる。
朝起きて、仕事して、
飯食って、ちゃんと話聞いて
それを、続ける」
派手な言葉はない。
でも、一つ一つが重い。
「……それでええんや」
🌸は涙を浮かべながら、頷いた。
「それが一番、嬉しい」
赤ちゃんは、信介の腕の中で眠っていた。
穏やかな顔で、規則正しく呼吸をしている。
「……生まれてきてくれて、ありがとう」
今まで、感謝を口にするのは得意やなかった。
でも、この日だけは、自然に出た。
「これから、しんどいこともあるやろうけど」
俺がおる。
🌸もおる
一緒に、ゆっくりでええから、
ちゃんと生きていこ」
赤ちゃんが答えるわけがない。
それでも、十分だった。
北信介は初めて、
「結果」そのものを、
こんなにも大切やと思った。
今日は、始まりの日。
静かで、確かで、
何より温かい一日だった。






