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陣痛室の前、及川徹は落ち着きなく廊下を行ったり来たりしていた。
「……っ、やば……」
普段はどんな試合前でも余裕の笑みを浮かべる男が、今はスマホを握りしめたまま、同じ場所を何度も踏み直している。
岩泉に言わせれば「見てらんねぇほど挙動不審」だ。
「大丈夫かな、🌸……」
弱音を吐く声は、誰にも聞かれないほど小さかった。
これまで数え切れないほどのプレッシャーを背負ってきた。
世界大会、満員のアリーナ、ブーイング混じりの歓声。
それでも及川徹は、いつだって自分を信じてボールを上げてきた。
――なのに。
ドアの向こうで必死に耐えている彼女のことを思うだけで、胸の奥が締めつけられる。
「俺……代われるもんなら代わりたいんだけど」
冗談めかして呟くが、笑えない。
やがて、赤ん坊の産声が響いた。
一瞬、時間が止まったように感じた。
「……え?」
助産師の明るい声が聞こえる。
「おめでとうございます。元気な赤ちゃんですよ」
その瞬間、及川の視界がぐらりと揺れた。
「……生まれた?」
膝の力が抜けそうになるのを必死にこらえる。
胸がいっぱいで、うまく息ができない。
ほどなくして、部屋に通された。
ベッドの上には、汗で髪を濡らした🌸がいて、腕の中には小さな小さな命。
「🌸……」
声が震えた。
彼女は疲れた顔で、それでも微笑んだ。
「……お疲れさま、徹」
「それ、俺の台詞なんだけど……」
冗談を言おうとして、言葉が詰まる。
助産師に促され、及川は恐る恐る赤ん坊を抱いた。
「ちっさ……」
腕の中に収まる温もり。
指を少し動かすだけで壊れてしまいそうなのに、確かに生きている重み。
赤ん坊が、ふにゃっと顔をしかめて泣いた。
その瞬間。
「……っ」
及川の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「え、ちょ、俺泣いてる……?」
自分でも信じられない。
試合に負けても、悔しくて歯を食いしばることはあっても、こんなふうに涙が止まらなくなることなんてなかったのに。
「俺さ……」
声がかすれる。
「バレーで世界一目指して、ずっと“自分”のために戦ってきたけど」
赤ん坊の小さな手が、ぎゅっと及川の指を掴んだ。
「……この子の存在、反則すぎでしょ」
笑おうとして、また泣く。
「守りたいものができたら、人ってこんなに弱くなるんだね」
🌸は静かに彼を見つめていた。
「弱くなったんじゃないよ。徹」
そう言って、優しく言葉を続ける。
「強くなったんだよ」
及川は一瞬、目を見開いて――それから、ふっと肩の力を抜いた。
「……そっか」
赤ん坊を胸に抱き寄せる。
「ねぇ、聞いて。君のお父さんさ、世界一のセッター目指してるんだよ」
赤ん坊はもちろん答えない。
それでも、及川は真剣だった。
「でもね」
🌸を見て、柔らかく笑う。
「今日からは、君たち二人の隣に立つのが、俺の一番の役目」
サーブトスを上げる指より、
勝利を掴む腕より、
今この瞬間の方が、ずっと大切だと心から思えた。
「……ありがとう、🌸」
「ううん」
彼女は小さく首を振る。
「一緒に、育てよう」
及川は大きく頷いた。
「任せて。世界一、うるさくて自慢げな父親になるから」
そう言って、赤ん坊の額にそっと口づける。
世界一のサーブより、
世界一のトスより。
――この小さな命が、及川徹の人生を一番大きく変えた。