「あ、あれ!? どこ行ったの!?」
先日神社でぽっちゃりしたおばあさんから買った可愛い可愛い猫の縁結びキーホールダー。
早速普段仕事へ持参しているカバンのファスナー部分に取り付けていたのだけれど。
家に帰ってみたらさくらんぼ状態から、ただのおひとり様な招き猫キーホールダーになっていた。
ショック……。
買って二日目でこんな……。
(これは干物女に良縁なんてありませんよ、という暗示ですかね?)
羽理はガックリと肩を落とした。
とりあえず、残ったひとつが落っこちたりしないよう、お財布のファスナーに移動させたのだけれど。
(効力も半減かなぁ)
何となくそう思ってしまった。
***
その日は夏らしい、とってもとっても暑ぅーい夜で。
羽理はお守りを失くしたショックと、残業で疲れた身体に鞭打って、小さな浴室で一人今日一日の疲れと汚れを落としていた。
せっかくお風呂で汗を流しても、下手をすると身体が温もりすぎて、タオルで水気を拭き取っている間にも汗ばんできてしまうから。
もう、いっそのことお湯には浸からなくてもいいよね?って事で、湯船にお湯を溜めずにぬるめのシャワーで汗を流して。
さぁ上がってご飯にしましょ、と浴室のドアに手を伸ばした瞬間。
ガラガラ――。
一〇階建ての女性向けアパートの七階――1Kの一室――で一人暮らしのはずなのに、何故か脱衣所へ続く中折れ扉が勝手に開いて。
「え?」と思う間もなく全裸のびしょ濡れ男が「暑ぃー」とつぶやきながらこちらに向かって一歩を踏み出して来た。
「――っ!」
羽理は、自身も真っ裸のまま、驚きの余り声にならない悲鳴を上げて、一人アレコレ思い悩んで悶絶する。
間近とはいえモアモアと湯気が立ち込める中でのパッと見なので絶対とは言えない。
けれど、一五五センチの羽理より二〇センチぐらい大きく見えたその男には、既視感があって。
「ぶ、ちょ……?」
自分の勤め先――青果専門に扱う商社『土恵商事』の総務部長・屋久蓑大葉に見えた。
(きっ、気のせいだよねっ!?)
当たり前だけど、屋久蓑部長と羽理は、一緒に風呂に入るような、そんな艶めいた間柄ではない。
我が家へお招きしたこともなければ、社内で会話らしい言葉だってほとんど交わしたことすらないのだ。
むしろ同じフロアに居てさえも、雲の上の人。ほぼほぼ接点のない相手。
屋久蓑大葉は、羽理の所属する財務経理課を取りまとめる総務部の部長様ではあるけれど、一介のペーペー社員である羽理が、部長様とお話をする機会なんて九分九厘ないわけで。
実際今まで遠目にチラリとお姿を拝見することはあっても、「おはようございます」の一言すら交わしたことがなかった。
***
突然の裸同士でのガチンコに驚いたのは、どうやら相手も同様だったらしい。
「ちっ、痴女!」
と失礼な言葉を残して、ピシャリと扉が閉ざされた。
(ちょっ、こっちは「部長」って呼ぼうとしたのに、「痴女」とかあんまりじゃないですかっ!?)
まぁ、羽理は屋久蓑部長を知っていても、あちらは平社員の羽理のことなんて知らないだろうから仕方がない気もするのだが。
何となく悔しいではないか。
そう思ってムスくれた羽理の耳に、扉の向こうから「はぁ!? ちょっと待て。何だここはぁーっ!」という声が聞こえてくる。
(いや多分そこ、私の部屋ですよ?)
羽理の家なのだから、お風呂場を出たら羽理が好きで集めている猫グッズだらけの空間が広がっているはずなのだ。
バスマットだって、ちょいデブ体型がチャーミングな癒し系の不細工だけど可愛いニャンコがダラーンと寝そべっているデザインだし、洗面所に掛けてあるフェイスタオルも、お風呂あがりに使おうと思って用意してあるバスタオルも、みんなみんな猫柄で統一してある。
(って言うより貴方、脱衣所側から風呂場側へいらしたんじゃないんですか? 何を今更驚きますかね?)
そんなことを思いつつ。
(それにしてもどうしよう! タオルも服もみんなみんなあっち側だよぅ!)
擦りガラスの向こう。
愛しの猫ちゃんバスラグの上に立ち尽くしていると思しき長身男性の裸体がぼやぁーっと透けて見えている。
(やだっ。案外お尻とか引き締まっててスタイル良くない? さっきたまたま! 不可抗力で! 見ちゃった股間も立派……、あ、いや、そこはどうでもいいんだけどっ。……屋久蓑部長、ノーマークだったけど新作は彼をモチーフにするのも有りかも♥)
なんて、一瞬恋愛妄想作家としての血が騒いでエロ的思考に囚われそうになった羽理は、ダメダメ!と気持ちを切り替えた。
「あ、あのぉ……。とりあえずそこ、退いてもらっていいですか? タオルとか服とか取りたいんです。お願いします……」
……何でもいいから身体を隠せるものを取らせてください!
外の男の二の舞を恐れて気持ち扉から距離を置きながら、言外に戸惑いと羞恥心を滲ませて恐る恐る風呂場の外へ声をかけたら「す、すまん!」と存外塩らしい声が返ってきて、ぼんやりと見えていた裸身が遠ざかった。
それでも心臓バクバク。
半信半疑の羽理は恐る恐る扉を薄く開くと、外の様子を窺って。
そぉっと手を伸ばして、脱衣所に置いてあった白黒猫が描かれたバスタオルを早技で浴室に引っ張り込んだ。
途端ガシャガシャッ!と騒がしい音がしたので、タオルを取った拍子にそこら辺のものを巻き込んで落としてしまったらしい。けれど、今はそれどころじゃなかった。
ミディアムロングをミルクティーベージュに染めた羽理のちょっぴり癖のある髪の毛からは、ポタポタと水滴がしたたっている。
だけど髪を拭くのも身体を拭くのも後回しにしなければ、と思う程度には混乱中。
そもそもあの裸の男性――多分屋久蓑部長――ってば、びしょ濡れのままどこに行きましたかね!?
羽理の住んでいるアパート。お風呂場は割と玄関近くに位置している。
だから玄関扉が開閉すれば音が聞こえてくるはずなのだけれど、その気配はないからきっとまだ家の中にいると思われる。
(まぁ、すっぽんぽんで外に出たら通報されるだろうし?)
バスタオルを身体に巻き付けて、そろぉーっと浴室の外を窺い見たけれど、どうやらもう脱衣所にはいないみたいだ。
足元に散らばったボディケアクリームなどの容器を避けつつ、フカフカの猫ちゃんバスマットの上に乗ると、いつもは自分が使うまでは乾いているはずのそれが湿っていた。
(夢、じゃなかったってことだよね?)
そのことに、自分以外の濡れそぼった誰かがそこへいたことを妙に生々しく実感させられた羽理は、タオルドライも中途半端なままの身体にいそいそと服を身につけた。
までは良かったのだけれど。
(あーん、私のバカッ! ブラがないじゃないっ)
羽理は寝る時はブラジャーをしない派だ。
パジャマにしている大きめの白いロングTシャツは、左胸に握りこぶし大の黒猫の可愛い顔が描かれていて「I LOVE CAT」のロゴが入っている。
むしろ柄が大きいのはバック側。背中の右半分に脇下を誰かに両手で掴まれて、ダラーンと伸びきった黒猫の絵柄があって、そばに「ニャー」と手書き風文字で鳴き声が描かれているのだけれど。
言ってしまえばかなりシンプルなデザインなのだ。
要するに!
ブラがないと結構な割合で胸元のシルエット――乳首とか乳首とか乳首とか!――がクッキリ見えてしまう。
(あああ。せめて黒色のTシャツにしておけばよかったぁ!)
オマケに暑いし、一人暮らしだし、誰も見やしないでしょ?という安心感から、いつもの様にズボンの類いすら用意していないという体たらく。
(せめて短パンとか普段から履くようにしとけばよかった!)
などと悔やんでも後の祭りだ。
(そ、そうだ!)
そんな中、苦肉の策を思いついた羽理は、そろそろと棚に手を伸ばす。
沢山モノを積み上げた下の方から、買ってはみたもののもったいなくてずっと未開封のまま仕舞い込んでいた猫耳フード付き三毛柄のバスローブを泣く泣く取り出した羽理は、それをTシャツの上へ羽織って。
ツンと布地を押し上げて存在を主張している乳首が目立たないよう、わざと胸元付近をダボつかせるようにして腰ひもを結んだ。
そのついで。さしたる意味はないけれど、フードもしっかり被って猫ちゃん気分を味わってみたりなんかして。
(やんっ。やっぱりコレ、めちゃめちゃ可愛い♥)
余りの可愛らしさに、一瞬現状も忘れてほわっとなってしまってからハッとする。
(あ、三毛ちゃん柄と言えば……)
ふと視線を転じれば、先程使った白黒猫が描かれたバスタオルとは別に、畳んで置いておいたはずの三毛模様のバスタオルが姿を消していて。
(あーん。やっぱりない! ひょっとして屋久蓑部長が使ってる?)
もぉ、お気に入りのタオルを勝手にぃー!と憤った直後、(ああ、でも! やっぱり裸のままは困るよね。どうかタオルでも何でもいいから身体に巻き付けていて下さいますように)と願ってしまった羽理だ。
(さすがにびしょ濡れすっぽんぽんのまま部屋へ潜伏されていたら、私、目のやり場に困っちゃうもん!)
漫画や小説では見慣れまくり・拝みまくりの男性の裸だけど、生身のモノにはからっきし免疫がない。
下手したら物珍しさからガン見してしまって、またしても痴女呼ばわりされてしまうかも知れないではないか。
そんな、恥じらい多き(?)処女としては至極もっともなことを思ったのと同時、さて今からそのほぼ裸の部長と、自身も防御力の低そうなこんな格好――ノーブラ――で対峙しなければいけないんだった!と気が付いた羽理は、今更のように気鬱になってしまう。
そもそもよぉーく考えてみたら――。
(私の三毛ちゃんバスタオルってば今! 部長のご立派さんの上じゃないですかぁぁぁ!?)
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