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空気がさらりとした朝だった。
二人は座卓に座り、凪が作った朝食を囲んでいた。
静かに箸が動く。将臣は黙々と口に運ぶ。その澱みない動作を、凪は目で追ってしまう。
「昨晩は、お疲れ様でした。お疲れも取れないのに、すぐに出勤だなんて」
「ああ。軍病院とは、こんなところだ。もう、身体も慣れた」
そう言いながら、味噌汁を静かに口へ運んだ。
(よかった。お口には合っているみたいで)
凪はゆっくりと縁側のその先に視線を向ける。
「あの畑……。耕してありました」
一瞬だけ、将臣の手が止まる。
「……まあ」
将臣はそれだけ答え、焼き魚へ箸を伸ばした。まるで、何でもないかのような表情で。
「……桐谷も薬草には詳しかったな」
口に入れた魚の身を、随分と長く噛み続ける。
将臣の言葉を待っていた凪が先に口を開く。
「私が……薬草を育ててもよろしいのですか?」
「もちろんだ。使いなさい」
決して『準備しておいた』とは言わない。
(私のために、そこまでしてくれるのですね)
込み上げる嬉しさを閉じ込めるように、凪は息を詰めた。
「どうぞ」
出勤の見送りに、凪が重い革の鞄を渡す。
「行ってくる」
将臣は自然にそれを受け取った。
土間の戸の前で、将臣が振り返る。
「そうだ、凪」
その表情は、軍医ではなくこの家にいる将臣の顔だった。
思わず、凪の胸がどきんと跳ねる。
「今夜、簡単な祝杯をしよう。準備して欲しいものがある」
「何でしょう?」
将臣は少しだけ考えるように視線を落とした。凪は不思議に思い、首を軽く傾げる。
そして、将臣はゆっくりと口を開いた。
「──結菓子だ」
その言葉に、一瞬だけ凪の息が止まる。
(兄様が褒めてくれた菓子を、将臣様も知っているのね……)
込み上げる思いに、凪は軽く唇の内側を噛んだ。
「かしこまりました。準備いたします」
将臣の表情が、今までにないほど綻んだ気がした。
「みゃーん」
その時、二人の間に結丸がやってくる。不満げに将臣を見上げている。
「忘れてはいない。結丸も一緒に、だな」
将臣が額を軽く撫でると、結丸は満足げに目を細めた。
早速、凪は縁側で結菓子を作り始めた。持参した薬草袋から、ニッキを取り出し、薬研に小さく砕いて入れた。そして、ゆっくりと擦り始めた。
縁側いっぱいに甘く柔らかな香りが広がる。
ふっと兄の笑顔を思い出す。
(将臣様も……この香りをかいでいたのかしら)
薬研を動かす手が、どこか軽かった。
乾燥した餡とニッキを混ぜ、成型し乾かす。
「ふう。終わった」
一息つくと、凪の真横に結丸がやってくる。ゴロンと寝そべり、日向ぼっこを始めた。
「ここ、気持ちいいものね」
凪が結丸を撫でると、頭に映像が流れてきた。
──毛がボロボロでヨタヨタと歩く三毛猫。それを長い指の男性が手拭いで掬い上げた。三毛猫は「みゃーん」か弱い声で鳴く。「大丈夫だ」聞き覚えのある声は、それだけを呟いた。
(緑の軍服……このお姿は──
「凪さん」
外からの声に、凪ははっと顔を上げた。そこには、将臣の母親が立っていた。
「野菜のお裾分けにきたわ」
腕に抱えた竹籠には、茄子、胡瓜、枝豆がたくさん入っていた。
「えっ。あ、ありがとうございます」
突然の訪問に凪は慌て廊下に手をつき、立ちあがろうとする。
「まあ。座ったままでいいのよ」
母親は籠を縁側へ置き、腰を下ろした。
「結丸ったら、離れに住み着いたのね。将臣っこだから、仕方ないけど」
ふふと上品に笑う。
「あの……結丸は迷い込んだのではなく、将臣様が助けたのですか?」
「そうよ。あの子が結丸を助けたの」
(やはり)
母親は結丸の身体をゆっくりと撫でる。
「将臣はね、昔から傷ついたものを放っておけない子だったのよ」
そして、その手が止まる。
「だから……軍医になったのかもしれないわね」
母親の笑みが少しだけ寂しげに揺れた。
「だから、結丸も助けたのですね……」
(将臣様は、やっぱり優しい人なんだ)
「でも、よく知っているわね。あの子、あまり自分の話をしないのに」
凪は曖昧に笑う。
この力だけは、誰にも話せない。
「昨日はごめんなさいね、主人が頑固ものだから。凪さんの居心地が悪くないか心配していたの。でも……将臣もわかっているようね」
また、柔らかな笑みを浮かべた。
「十分な心遣いを受けておりますから、どうぞご安心ください」
「何かあれば遠慮せずに言ってくださいね」
「ありがとうございます」
凪は丁寧に頭を下げた。
(将臣様は、私の居場所を作ろうとしてくださっている)
そう思うだけで胸が温かくなる。
この家でなら、将臣様となら、少しずつ歩いていける気がした。