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「そ、それで。あの――」
ピッチャーを冷蔵庫に戻してから、自分のグラスを机上に置いてカウンター越し、ふわふわさんをじっと見つめたら彼も同じことを思っていたらしい。
弱ったような顔をして眉根を寄せた。
「日和美さんのお陰で一息つけました。ですが残念ながら今のところ何ひとつ思い出せる気配がありません」
一応それでも、と道端で見た時より念入りに精査するため、スーツのジャケットやベストを脱いでもらって、あちこち二人で見たのだけれど、やはり身元を示唆するようなものは何もなくて。
念には念を入れて脱衣所でズボンやネクタイ、ワイシャツやパンツに至るまで全て脱いでセルフチェックもして頂いたけれど、結果は変わらなかった。
(お財布なしも不思議だけど……携帯すら持っておられないって……なんかちょっと不自然すぎない……?)
もうここまでくると、やはりふわふわさんはどこぞの国の王子様とかで……何かの紛争――例えば後継者争いとか?――に巻き込まれてお忍びで日本まで逃げていらしてて。そう! それで追手から逃れるために意図的に身バレするようなものは何も手にせず高級ホテルとかから逃げ出していらしたんじゃないかしら⁉︎とか、ありもしない迷夢が脳内で大暴走を開始してしまった日和美だ。
いや、そもそもこの近くに高貴な方がお泊まりになられるような高級ホテルなんてものはないし、お忍びなら逆に鄙びた逗留先を選ぶ気もするけれど、残念ながら仮にそこまでランクを落としたとしてもホテル自体がこの辺りにはない。
だが、そんなこと、映画チックな妄想をしたいだけの日和美には大した問題ではなかった。
***
「弱りました……」
危うく心が遠い地へ旅立ちそうになっていた日和美は、ふわふわさんのその声でハッと我に返った。
当然と言うべきか。
自分が誰であるのかすら分からない状況を改めて突き付けられて、泣きそうな弱々しい顔をしたふわふわさんに、日和美もどうしたら良いのか分からなくなる。
分からないままにソワソワと部屋を見まわしたら、壁に掛けた時計が目についた。
「――‼︎」
時刻はそろそろ正午に差し掛かろうかというところ。世間ではいわゆるランチタイムの到来だ。
いや、それよりも!
(ぎゃーっ。ヤッバァーイ! あの時計、萌風先生のファンサイトで買った『ときマカ』のやつぅーっ!)
『ときマカ』。正式名称『ときめきハプニング★ 午後のティータイムで王子様に見初められて身ごもりました⁉︎ 強引な茶葉の君はカラフルなマカロンでうぶな姫を魅了する』は、日和美が先日読了したばかりの萌風もふ先生の最新刊。
あとがきにお茶のあれこれが書いてあった文庫本で、例によってとってもとってもエッチな小説(=TL小説)だ。
『ときマカ』が収録されているレーベルは『ムーンライトときめき濡恋文庫』。
姉妹レーベルの『サンシャインときめき甘恋文庫』は小中学生でも読めるライトな仕様だけれど、『ムーン~』の方はもちろん違う。
〝きゃー、そんなところまでっ⁉︎ ヤダ、恥ずかしいっ! でも、もっと読ませて?〟な、大人の恋模様が丁寧かつ緻密に描かれた、日和美が大好きなレーベルのひとつで。
何よりもここのレーベルには日和美の好みに合致した、溺愛・ドS・甘々・王子様ものが多い。
日和美、『ムーン〜』から発刊されたものは萌風もふ先生作品のみならず、他の先生方のものも買い漁って、本棚にズラリと並べている程に『ムーン〜』レーベルのファンだ。
*
日和美は萌風もふ先生が好きすぎて、一四〇文字程度でコメントを入力してつぶやくことが出来るソーシャルネットワークサービス『Tsubuyaitar』で、萌風先生のアカウントをフォローしているのだけど。
そこで萌風先生が個人的に自作品のオリジナルグッズを販売しているのを知って、最新刊読了後の興奮覚めやらぬアッパラパーな脳のまま、あの掛け時計を買った。
いつもなら未開封のまま仕舞い込むところだけれど、萌風先生グッズ、記念すべき第一号のこの時計だけは、どうしても毎日眺めてニマニマしたい!という衝動にかられてしまい――。
どうせ誰も来やしないわ。来ても自分と同じようなオタク仲間よ、と高をくくってルンルンでキッチンの壁に掲げた結果が今の惨状、というわけ。
(バカ日和美ぃーっ! 趣味は趣味の寝室に閉じ込めておきなさいよ!)
あの時計がせめて和室の壁に掛かっていたならば、今こんなに嫌な汗をかく羽目にはならなかったわけで。
「あ、あのっ。ごはんっ、お、お昼ごはんを一緒に食べに行きませんか? わ、私っ、とってもお腹が空きました!」
気が付いたらそんなことを言って、ふわふわさんを外に誘い出す算段を練っていた。
「……でも日和美さん。僕はお金も何も」
もちろん日和美だって、所持品皆無の 気が付いたらそんなことを言って、ふわふわさんを外に誘い出す算段を練っていた。ふわふわさんにそんなもの、求めていない。
彼女が今求めているのは一刻も早いこの部屋からの離脱のみ。
「そんなの、今は気にしなくていいです。腹が減っては戦は出来ません! つべこべ言わずに行きますよ!?」
ハッキリ言って記憶を失くして落ち込んでいる人にそれはないでしょう、という強引さでそこまでまくし立てて。
「さぁ、行きましょう……、ふ……」
〝ふわふわさん〟と呼び掛けようとして、心の中ではずっとそう呼んでいたけれど、それで固定してもいいものか迷った日和美は、珍しく言葉に詰まった。
相手にも認識されている正式な呼び名がないというのは何とも不便極まりないではないか。
「えっと、提案なんですけど……記憶が戻られるまでの間、仮の呼び名を決めませんか? やっぱりお名前を呼び掛けられないのは不便です」
それは同時に記憶が戻るまでの間、私が貴方の面倒を見ますよ、という日和美なりの意思表示でもあった。
お財布と車のキー等が入ったバッグを手に取りながら「……何かこう呼ばれたら嬉しいとか言うのがあったら教えてください」と畳み掛けてみる。
そうしながらも、しっかりふわふわさんの手を引いて、危険な部屋を後にするのは忘れない。
「あ、あの……、日和美さんっ?」
いきなりカウンターを回り込んできて、ガシッと手を握るなり歩き出した日和美に、ふわふわさんの戸惑った声が掛かる。
「すっごぉーくお腹が空いたので、歩きながら話しましょう!」
だけどエッチな作品大好き!の秘密を守るためなら、いつもより少しばかり大胆になるくらい何て事ないわ!と思えてしまった日和美だ。
日和美に手を引かれて驚きながらも、ふわふわさんはちゃんと日和美が言ったことを考えてくれたらしい。
背後から、「呼び名なんですけど……日和美さんが呼びやすい名前を付けて頂いてもいいですか?」と、こちらの様子を窺うような声が掛かる。
(そりゃあ、自分の名前はおろか、何もかも分からなくなってしまったふわふわさんに、いきなり仮の名前を考えろだなんて……確かに酷な話だわっ)と反省した日和美だ。
ここはもう、お言葉に甘えて図々しくいこう、と思って。
「じゃあ、〝ふわさん〟にしちゃいましょう。ほら、不埒の〝ふ〟に、破瓜の〝は〟で不破さん! 普通にありそうな苗字です!」
「フラチ? ハカ?」
思わず言ってしまってから、キョトンとした顔で日和美の言葉を繰り返す彼を見て、(バカ日和美! 言葉のチョイス!)と思ったけれど後の祭り。
毎日、暇さえあればTL小説を読みふけっている日和美の脳は、完璧にそっち仕様に仕上がってしまっていた。
その失態を誤魔化したい一心で、「しっ、下の名前も思いつきました! 譜面の〝ふ〟に和室の〝わ〟で譜和さん。フルネームで言うと不破譜和さんです。貴方をお見掛けした時の、私の中のイメージに漢字を当てただけなんですけど、どうでしょう!?」と言っては見たものの。
(どうでしょう?って言われても、私なら絶対困るし拒否るやつ!)
萌風もふ先生の名前はペンネームだからありなわけで、実際に生活するのに「不破譜和さん」だなんておかしいに決まっている。
(お願い、ふわふわさん! 「それはちょっと」と難色を示して不埒と破瓜のくだりからリセットさせて! 今度はしっかり気持ちを切り替えて、アルノエル王子とかちゃんとしたのに名付け直すから!)
きっとふわふわさんの日本人離れした外観なら、それもありだろう。
だけど、それにしたってアルノエルは萌風もふ先生の処女作に出てきた金魚王子の名前なので、TL沼からは全く抜け出せていないということに気付けていない日和美だ。
*
「――日和美さんはきっと、文学乙女なんですね。不破という名前の説明で、不埒と破瓜が出てくる人はそうそういないと思います。それに……不破譜和って……最初に日和美さんが僕に呼び掛けてくださった名前ですもんね? うん。気に入りました。では改めまして、よろしくお願いします」
だけどさすがお気遣いの〝不破さん〟だ。
少しだけ時間は要したけれど、ふわりと微笑んでそんな風に言ってくださるのだから。
「あ、でもやっぱり」
――変じゃないですか?と続けようとしたら、「それに……上手く言えないんですけど。実は日和美さんに不破譜和さんって呼び掛けられると、この辺りに引っかかるものがあって……。何か思い出せそうな気がするんです」と、こめかみの辺りを指さしながら先手を打たれてしまった。
「え?」
それは初耳だったので、思わず間の抜けた声を出して不破さんを見つめたら、不安そうな笑顔を向けられる。
(こんな心許なげなお顔をしていらっしゃるんだもん。私が|不破譜和さんって呼び掛けることで何か思い出せそうならもうこのままでいいかな?)と思ってしまった日和美だ。
「じゃあ、えっと……改めまして――。山中日和美です。よろしくお願いします」
「不破譜和です。よろしくお願いします」
そんなこんなで、ふわふわさんは〝不破譜和さん〟になりました。