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「快くんバイバイ!」
30代後半の女性は凪に笑顔で手を振った。それは、凪がこれから無期限の休暇に入ることを知らないからだ。
事務所には数日前に連絡を入れた。売上がないと困るなどと散々愚痴を言われたが、それならこのまま辞めると言い返せばそれ以上はなにも言ってこなかった。
客からのDMは溜まりっぱなしだ。通知もオフにしてあるし、何十通も追いDMがきていても開くことはない。
事務所には問い合わせの電話が殺到するかもしれない。それでも凪にはもう関係ない。そう思うことにした。
最後の客との時間は、想像していたよりもあっという間だった。あんなにも見るのも触れるのも苦痛だと感じていたはずが、これで最後だと思ったら気持ちは楽だった。
笑顔も最近の中でも上手く作れた方だ。ちゃんとマッサージもしてやったし、性感にも力を入れてやった。本番をすることはなかったが、客は次回を期待して上機嫌で帰っていった。
これで終わりかぁ……。まだ辞めたわけでもないのにそんなふうに考えると、なんとなく感慨深いものがあった。
事情があってこの仕事を辞めることがあっても、自ら嫌気が差して辞めることを望むようになるとは思ってもみなかった。
どこか安堵している自分がいる。明日からは時間を気にせずに眠れるし、自由に生活ができる。予約時間に合わせた生活スタイルを捨てることができる。
それが無性に嬉しいはずなのに、それをなくしたら凪には何もすることが思い浮かばなかった。
昼過ぎまで寝るとして、食事はどこに食べに行こう。客と色んな飲食店に行き過ぎて、ここがお気に入り! という場所もないし、気になってはいるが行ったことのない店というのもない。
興味のあった全ての経験を客としているかと思うと嫌気もさすが、そのお陰で無経験なものはほとんどないと言っても過言ではなかった。
「昼まで寝るったって、寝れねぇか……」
凪はポツリと呟いて、明日からの予定をどう組もうかとぼんやり考えていた。
凪は暗い部屋の中でぼんやりと天井を見つめていた。休職してから既に4日が経った。SNSには、暫く仕事もDMもお休みしますと投稿をした。
それにもかかわらず、心配するDMがわんさか届くものだから、気遣いできない人間がどれほど多いか嫌というほどわかる。
こんな時、こちらから連絡するまで放っておいてくれる女性としか付き合いたくないものだと思ってしまう。
その時点で恋愛対象でもないのに、客たちは凪に捨てられないよう必死なのだ。捨てるもなにも、最初から金の関係。凪はそう思うだろうが、そんな凪の考えなど信じたくない人間がほとんどだった。
通知を切っていてもアプリに通知の数字が残っていてそれを見る度にうんざりするものだから、凪はついにスマートフォンの電源を切った。
スマートフォンから離れ、テレビも音楽もつけずにただひたすら無音の中で過ごした。
3日までは仕事のことや千紘のことや友達のことを考えたが、その内考えることもなくなった。
24時間が手に入ったのだ。その中で睡眠がとれるのはたったの2、3時間。どんなに眠ろうとしても、ふと目が覚めていつも暗闇の中にいた。
カーテンも開けないから時間の感覚もない。スマートフォンも電源を落としているから時間を確認する術もない。そもそも時間を知る必要もなかった。
何日の何時かなんて今の凪には関係ない。いつから食事を摂っていないかもわからない。空腹感はあるものの、わざわざコンビニへ買い物に行ってまで食べなくてもいいか。
そう思ってからまた何時間か経った。トイレには数回起きて、水は飲む。口の端からこぼれた水を腕で拭えば伸びたヒゲがチクチクとあたった。
脱毛には通っていたが、全てが綺麗さっぱりなくなってしまったわけではない。薄くもなったし、生えてこない部分はあるが多少生えてくるのだ。
「期間を伸ばして当てていきましょう」そう言われ、毎月通っていたのを2ヶ月に1回にしたらその内面倒になって、いつの間にか行ったり行かなかったりになった。
仕事以外のことはほんとに続かないんだよなぁと当時も思ったものだ。セラピストを辞めるかもしれない今となっては、それも凪にとっては「まあ、いいか」で済まされてしまうのだ。
太陽が高い位置から部屋の中を照らす。千紘はリビングのソファーに座っていた。
大きな窓からはさんさんとした光が見える。こんなにもいい天気なのに家の中にいるなんてもったいない。いつもの千紘ならそう思っただろうが、とても出かける気にはなれなかった。
売れっ子になってから初めて仕事を休んだ。今まで予約でいっぱいで、休んでいる暇などなかった。
嫌がらせによって予約が全くなくなった時でさえ、毎日出勤だけはした。けれど、千紘はそんな気になれなかった。
凪から美容院の予約をキャンセルする電話がきたのだ。それもアシスタントが対応して、事後報告された。
凪はまた予定が決まったら組み直すと言ったそうだが、千紘は自分が知らないところで凪がキャンセルしていたことにショックを隠しきれなかった。
仕事だけは何とかこなしたが、動揺したし、やる気もなくなった。凪が来店するのを楽しみに頑張っていた部分もあったから、余計に何のために働いていたのかわからなくなってしまった。
とても働けそうにない。そう思った千紘は、自分の客に自ら電話をかけて予約を変更してもらった後、本日の休暇を取ったのだ。
凪が仕事を休みたいと言った時に、がむしゃらに頑張ってると疲労に気付かないものだと言ったが、自分にも言えることなんだと気付いた。
凪と最後に会ってから、当然連絡はない。余計に嫌われたくはなくて、千紘からもできずにいた。
あの後散々泣き腫らし、千草とも話をした。千草は「千紘の好きな子に酷いことするわけがない」と言っていたが、結局凪を脅すようなことを言ったと白状した。
その一言を聞いても、いつもの凪と千紘だけのやり取りならそんなに敏感になるものでもなかった気がした。けれど、千草の雰囲気や敵意が凪を不快にさせたのだろうと思えた。