千草は千紘に謝ってくれたが、千紘が凪にしたことはどうしても理解ができないと悲痛そうな顔で訴えた。
どんなに相手のことが好きで触れたくても、相手を傷付ける意図はなくても、法に触れることはしちゃいけない。そう兄らしく諭すように言われた。
そんなことは言われなくてもわかっている。わかっていて凪にしたのだ。するかしないかはギリギリまで悩んだが、どうしても我慢なんてできなかった。
客と美容師、客とセラピスト、どちらの立場で会ったとしても凪が男性を好きになる確率なんてほぼ0%だったのだから。
凪から千紘に連絡をくれたこと自体奇跡に近く、誘ってくれたことなど夢のようだった。一気に夢から覚めてしまったようで、無気力この上ない。
千紘はなにもせずに膝を抱えたまま、ぼーっと過ごした。ずっと凪のことだけを考えた。千草は凪から連絡がくるのを待つしかないと言った。
凪が帰る原因となった千草に言われたくない。そうも思ったが、そもそも千紘が凪を怖がらせることをしなければ、そうはならなかったのだからどちらがどれだけ悪いとも言えなかった。
結局千草と買い物へは行ったものの、当初の予定通りはしゃぎながらあれやこれやと物色することはなかった。
千草もどこか気まずそうにしながら、早々にプレゼントを決めて帰っていった。今回の結婚記念日は、俺のことを思い出すんだろうなぁなんて千紘は心のどこかで思ったが、千草の結婚記念日よりも、凪のことの方が気がかりだった。
本来眠れないから、という理由で千紘のもとを訪れていたのだ。あれから数日間、凪はちゃんと眠れているんだろうか。
千草に恐怖を与えられて、余計に眠れない日々が続いているんじゃないかと気が気じゃなかった。
休職してから2週間が経った頃、凪はようやく家中の窓を全開にして換気をした。
さすがにやることがなく、暇だというものを実感できた。
暇を感じることが幸せだと思えた。休職してから1週間は、まだ仕事へ行かなくていいという実感がなくて重たい体を動かしながらチラリと施術用のバッグに目を移したりした。
廃人のようにいつまでもベッド上で過ごしたが、流石に腹が減りすぎてストックしていたカップラーメンをすすった。
そんなふうにしながら、一歩も外へ出ることもなく家にあるものだけで適当に過ごした。家にあるものといってもほとんど客と過ごしていて、自宅にいる時間もなかったから、食べ物も飲み物もないに等しかったが。
それでも人間生きられるものだな、ととうとう何もかも空になった家の中を見渡してそう思った。
けれど、凪にとっては丁度いいタイミングだった。ようやくベッドから出る気になったし、3日くらいシャワーも浴びずにぼーっとしていたのも、ゆっくりと湯船に浸かりたいと思えるようになった。
放っておけば、いくらか人間らしい思考が戻ってくるのかと自分でも驚きながらお湯はりをした。
それから空っぽの冷蔵庫と乾麺をストックしておいた引き出しを開けて再度なにもないことを確認する。
「……腹減った」
食べるのすら面倒くさい。そう思っていた時に比べれば食欲が出てきただけマシだった。何食べようかな、と考えられるようになっただけ進歩だ。
今までの人生で、美味いと感じたものを思い浮かべてみる。あれもこれも美味かったな……そう考えていると、千紘と一緒に食べたタンシチューを思い出した。
あれも美味かった……。ぼんやりと考える。思えばあれが初めて千紘と食事した時だ。料理はどれも美味かった。また来たいと思えるほどに。
2回目のチャンスでは人が多すぎて入れなくて、結局千紘の家でピザを食べた。この日は初めて千紘の家に行った日だった。
何となく思い出しただけなのに、毎回千紘との初めてを何かしら体験していた気がした。
玄関のドアを開けると太陽の光が眩しくて、凪はギュッと強く目を瞑った。部屋の中のLEDに慣れてしまっていたから自然光に当たること自体久しぶりだった。
ずっと部屋着で過ごしていたから、まともな服に着替えたことも変な気分だった。髭を剃ってヘアセットをした。
仕事をしていた時には当たり前にしてきたことだったが、2週間しないでいたらしなくてもいいかと思えた。
けれど今日してみたらしてみたで、すんなりと支度ができて、2週間くらいじゃ元々の習慣を体が忘れてしまうなんてことはないのだと痛感した。
散々歩いた道なのに、2週間ぶりの屋外は異空間のように思えた。しかしなんとなくそれも新鮮で、凪は胸いっぱい空気を吸い込んだ。
排気ガスの臭いが混じっていたが、それでも空気が美味しく感じた。
「外久々……」
ポツリと呟いて、凪は歩いてコンビニへ向かった。人に会うのも久しぶり。他人の声を聞くのも久しぶり。何もかも久しぶりで、止まっていた時が動き出したようだった。
それでもまだ暫く仕事はしなくてもいいやと思えた。
大量に買い込んだらまた引きこもってしまう気がして、今日と明日分の食事とデザートを買った。
外に出て風が吹けば前髪が目にかかって指先ではらう。毎月カットしていたのに今月の予約をキャンセルしたから、既に前髪も長くなっていた。
千紘には連絡しないくせに、美容院には直接電話をかけてキャンセルをした。あの時には千紘に悪いだとか、取りにくい予約をキャンセルするなんてもったいないだとかそんなことは少しも考えられなかった。
それも今となっては少しだけ、凪がキャンセルした後、千紘がそれを知った時の様子を想像してみたりした。
千草への恐怖は既にないように思えた。でも、本人に会ったらまた蘇るかもしれない。千紘に会っても同じかもしれない。むしろ、千紘への恐怖が倍増するかもしれない。
そうは思うものの、いつかは連絡しないとな……と頭の片隅で考えた。
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