テラーノベル
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冷え込みの厳しい夜だった。
カルトの拠点から少し離れた野原には、青白い月明かりが静かに降り注いでいる。
風が草原を撫でるたび、乾いた葉がかすかに擦れ合い、遠くの木々がざわめく。
静かだった。
あまりにも静かだった。
だからこそ、その男の異様な緊張感だけが、やたらと浮いていた。
「…………」
灰色のローブ。
黒い指なし手袋。
不気味に尖った前髪。
そして、その両手に抱えられているもの。
真っ赤なバラの花束。
ツータイムは、それをまるで禁断の古文書か、世界を滅ぼす魔導具かのように、両手でガチガチに抱えていた。
「…………よし」
小さく呟く。
しかし、声が震えている。
「……落ち着け、我が魂よ」
深呼吸。
「これは戦闘ではない」
もう一度深呼吸。
「これは儀式だ」
さらに深呼吸。
「いや……違う」
ツータイムはバラを見下ろした。
「これは……」
数秒間、真剣に考える。
「最終決戦だ」
どうやら本人の中ではそういうことになったらしい。
「今日こそは……」
ぎゅっと花束を握る。
「普段のふざけた態度を脱ぎ捨てる」
月明かりが、彼の横顔を照らす。
「我が魂の真実を……」
拳を握る。
「我が心の奥底に眠る、唯一無二の想いを……」
そして、決意に満ちた顔で前を向いた。
「アズールへ捧げる」
しばしの沈黙。
「……完璧だ」
何が完璧なのかは本人にしか分からない。
ツータイムはローブの裾を翻し、暗闇の中を歩き出した。
その先には、焚き火のそばに置かれた丸太の椅子。
そこにアズールが座っていた。
いつものように、採取してきた薬草を種類ごとに分けている。
鼻歌まで歌っている。
「この葉は乾燥させて……」
そこへ。
「…………」
背後から忍び寄る灰色の影。
アズールはまだ気づいていない。
ツータイムは丸太の椅子まであと数歩というところで立ち止まった。
そして。
「…………」
深呼吸。
「…………」
もう一度。
「…………」
三度目。
「…………」
四度目。
アズールが振り返った。
「……?」
「……」
「……ツータイム?」
「…………」
「さっきから後ろで何してるの?」
「…………」
「?」
ツータイムは決意した。
今だ。
「アズール」
「うん?」
次の瞬間。
灰色のローブが、バサァッと大きく翻った。
「我が永遠の闇の伴侶よ!!」
「うわっ!?」
アズールが目を丸くする。
ツータイムはその場で片膝をついた。
完璧な姿勢。
完璧な角度。
完璧なキメ顔。
そして、両手で赤いバラの花束を差し出す。
「契約の時だ!!」
「…………は?」
アズールの顔が固まる。
だが、ツータイムは止まらない。
ここまで来たら、もう引き返せない。
「聞け、アズール!」
「う、うん……?」
「この血塗られた荒野において!」
「うん」
「幾多の苦難を乗り越え!」
「うん……?」
「幾千もの夜を共に駆け!」
「……うん」
「我らは幾度となく死線を潜り抜けてきた!」
「……」
アズールの眉が少しだけ上がる。
ツータイムは、さらに声を張った。
「そして俺は気づいたのだ!!」
「…………」
「この広大なる闇の世界において!」
「…………」
「君こそが!!」
「…………」
「我が魂に残された、唯一にして最大の光なのだと!!」
「…………」
「ゆえに!!」
ツータイムはバラをさらに突き出した。
「この呪われし深紅の薔薇を受け取り!」
「…………」
「我が暗黒の帝国へと永遠に縛られるがいい!!」
「…………」
「永久の愛と忠誠を!!」
目を見開く。
「ここに誓う!!」
沈黙。
風が吹いた。
野原の草が揺れた。
焚き火がパチッと爆ぜた。
アズールは。
「…………」
数秒間。
ただ、ツータイムを見つめていた。
そして。
「ぷっ」
「…………」
「……ふふ」
「…………?」
「ふ、ふふふ……」
ツータイムの眉が動く。
「アズール……?」
「ご、ごめ……」
肩が震えている。
「ちょっと……待って……」
「…………」
「無理……」
そして。
「アハハハハハハハッ!!」
「なっ!?」
大爆笑。
完全に爆発した。
「アハハハハハッ!!」
「な、なぜだ!!?」
アズールは丸太の椅子からずり落ちた。
「ちょ、待って!!」
「何がおかしい!!」
「だって!!」
腹を抱える。
「『我が永遠の闇の伴侶よ』って!!」
「…………」
「なにそれ!!」
「…………」
「プロポーズなのに全然めでたくない!!」
「なっ……!」
「世界征服の宣戦布告じゃん!!」
「ち、違う!!」
「『我が暗黒の帝国へ永遠に縛られるがいい』って!!」
「愛の告白だ!!」
「どう聞いても呪いの契約!!」
「違う!!」
「しかも薔薇まで真っ赤!!」
「赤は愛の色だ!!」
「いや完全に血の色なんだよ!!」
「…………」
「アハハハハハッ!!」
アズールはついに地面に転がった。
腹を抱え、涙まで浮かべながら笑っている。
「待って……ほんと無理……」
「…………」
「真面目な顔して……」
「…………」
「そんな中二病全開で……」
「…………」
「プロポーズしてくるの……!」
「…………」
「キミ、ほんと最高すぎる……!!」
「…………」
ツータイムは固まっていた。
片膝をついたまま。
バラを差し出したまま。
顔だけが、見る見るうちに赤くなっていく。
耳。
頬。
首筋。
全部真っ赤。
「…………」
「…………」
「…………もういい」
「え?」
「もう知らん!!」
ツータイムは勢いよく立ち上がった。
「俺は闇の霧に消える!!」
「え、ちょっと待って」
「この世界から存在ごと抹消する!!」
「待って待って」
「今すぐ暗黒の彼方へ――」
「ツータイム」
「…………!」
アズールの手が伸びる。
くいっ。
ローブの裾を掴まれた。
「離せ……」
「やだ」
「…………」
「どこ行くのさ、魔王様」
「…………」
「せっかくここまで準備したのに」
「…………」
「薔薇も持ってきたのに」
「…………」
ツータイムは振り返れない。
「……笑っただろ」
「うん」
即答だった。
「…………」
「だって面白かったから」
「…………」
「でも」
アズールの声が少しだけ柔らかくなる。
「嬉しかったよ」
「…………」
ツータイムが、ゆっくり振り返る。
アズールはまだ少し涙目だった。
笑いすぎたせいで頬が赤い。
それでも、その表情はとても優しかった。
「ほら」
アズールは、ツータイムがずっと差し出したままだったバラの花束を、そっと両手で受け取った。
「ちゃんと受け取った」
「…………」
「キミの暗黒の……なんだっけ」
「……契約だ」
「そうそう」
アズールが微笑む。
「その契約」
そして。
一歩。
ツータイムへ近づく。
「……っ」
ツータイムが身構える。
アズールはそのまま、彼の胸元へそっと腕を回した。
「……!?」
ツータイムの全身が硬直する。
「ア、アズール……?」
「ん?」
「これは……」
「お返し」
「…………」
アズールが少し背伸びをする。
そして。
ツータイムの真っ赤になった頬へ、自分の頬をそっと寄せた。
「……」
ツータイムの目が見開かれる。
さらに。
ほんの一瞬だけ。
唇が触れた。
「…………」
時間が止まった。
ツータイムの脳内から、すべての暗黒魔法が消滅した。
暗黒の帝国。
呪われし荒野。
闇の神。
血塗られた薔薇。
全部消えた。
残ったのは。
「…………」
真っ赤になって固まっている少年がひとり。
アズールはそんな彼を見て、くすっと笑った。
「……もう」
その頬を指先で軽くつつく。
「そういう変なカッコつけたところ」
そして、少し照れたように目を細める。
「大好きだよ」
「…………」
完全に沈黙。
「…………」
「ツータイム?」
「…………」
「聞こえてる?」
「…………」
「魔王様?」
「…………」
「顔、真っ赤だけど」
「…………」
「ふふっ」
「…………」
ようやく。
ツータイムの口が小さく動いた。
「……反則だ」
「何が?」
「……その……」
言葉が続かない。
さっきまであれほど堂々と愛を語っていた男が、今では顔を真っ赤にして視線を泳がせている。
アズールはそんな彼を見て、また小さく笑った。
「ほら」
「…………」
「抱きしめていいよ」
「…………」
「契約なんでしょ?」
「…………」
数秒後。
ツータイムの腕が、恐る恐るアズールの背中へ回る。
そして。
ぎゅっ。
今度は、逃げないように。
壊さないように。
けれど、確かめるように強く抱きしめた。
アズールも、その背中へ腕を回す。
二人の間に、静かな温もりが広がっていく。
月明かりは冷たい。
夜の風も冷たい。
けれど、その場所だけは不思議なくらい暖かかった。
しばらくして。
アズールが、ツータイムの肩越しに赤い薔薇を見る。
「ねえ」
「……なんだ」
「この薔薇、どこから持ってきたの?」
「…………」
「まさか」
「…………」
「カルトの花壇からじゃないよね?」
「…………」
「ツータイム?」
「…………」
「答えて?」
長い沈黙。
「…………秘密だ」
「怪しいなぁ」
「暗黒の機密事項だ」
「はいはい」
アズールが笑う。
「じゃあ、今度一緒に育てようか」
「…………!」
ツータイムが顔を上げる。
「……俺と?」
「うん」
「……薔薇を?」
「そう」
「……」
ツータイムは少しだけ考えた。
そして。
「……それは」
真剣な顔で頷く。
「第二の契約だな」
「ふふっ」
アズールはまた笑った。
「じゃあ、よろしく。暗黒の薔薇園の魔王様」
「……任せろ」
冷たい月明かりの下。
世界は相変わらず、救いようのないほど暗かった。
カルトも。
闇も。
戦いも。
きっと明日にはまた、二人を待っている。
けれど今夜だけは。
一輪の赤い薔薇と。
少し不器用な抱擁と。
笑いすぎて涙まで流した植物学者の笑顔があった。
そして二人は、誰にも邪魔されない夜の野原で。
誰よりも不器用な方法で。
誰よりも二人らしい「永遠の契約」を結んだのだった。
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