テラーノベル
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それからしばらく、俺はVWIにログインしなくなった。何となく二人に対する後ろめたさもあったし、単純に仕事が忙しすぎるというのもあった。今までは睡眠時間を削って何とかなっていたようなことでも、またこの間みたいになったら、と思うと眠れそうなときにはなるべくそちらに時間を割こうという気持ちになっていったのだ。
「ねぇ、今度の衣装のコンセプトなんだけどさ」
1か月後に控えているライブで着用する衣装について、デザイナースタッフと話し合っていくつか作った案を二人にも見てもらう。
「全体的なコンセプトカラーが今回はパステルな感じだから、若井はデザインをかなり強めにマニッシュにして……涼ちゃんはそう、髪色はたくさん色いれるよりかは統一して衣装の方に色を増やそうかなって。あとメイクもアトラの時みたいにキラキラって感じのいれて、カラコンとかもこの辺のカラーから……」
ふむふむと頷く二人。さしあたって特に異論はないらしく、とんとんと衣装案がまとまっていく。
「あ、これかわいい」
涼ちゃんが指さしたのは、ヘアスタイルのパターンをいくつか図案化したものの中で、青みがかかったグレーの髪色で、ゆるめに巻いたスタイルのものだ。
「アトラのイメージと被っちゃうかな」
いや、そんなことないよ、と俺は口を添える。実を言えば俺もこのパターンが最も気に入っていたので、本人もそれを選んだというのが嬉しかった。
「衣装の雰囲気が全然違うし、この髪色なら曲によって変わるステージのライトによっても印象が変わっておもしろいと思う。じゃあ涼ちゃんはこれで行こう。カラコンもこれに合わせようか」
うわぁ楽しみ、と涼ちゃんは嬉しそうに何度も頷いた。俺はこの時、本当に「ミセス」のことで頭がいっぱいで、神に誓って他のことなどまったく意図していなかった。いや、無意識のうちに考えないようにしていたのだろう。
……だから、この涼ちゃんの「デザイン」が「セキ」に酷似していると気づいたのは、1か月後にライブを終え、ようやくVWIにログインしてセキと対面した時だった。昨日までステージ上で何度も目で追った、その後ろ姿にそっくりなブルーグレーの髪色が揺れるのを見たとき、俺は思わず息を止めた。
「久しぶりだね」
セキは俺の姿を認めると、それはそれは嬉しそうに微笑んでみせた。
「……もうここには来ないのかなって思ってた」
俺の隣に並んで座ったセキは自分の足先を見つめながら小さな声で言った。そんなつもりは微塵もないのだろうけれど、俺はなんだか責められているような感じがして落ち着かなかった。
「ごめん、仕事が忙しくて」
本当のことなのに、なんだか言い訳がましく聞こえてしまって、俺はさらにばつが悪くなる。そんな俺を見て、責めてるんじゃないよ、と彼は申し訳なさそうに笑った。
「僕もちょうど仕事が忙しい時期だったから、あまりログインできてなかったし……ただ、この2か月ほど何の音沙汰もないことに、なんだか怖くなったんだ」
「怖い?」
意外な言葉が彼の口から飛び出して、俺はちょっと怪訝に思いながら彼を見た。
「うん、だってさ、僕らのつながりってここだけじゃない。それは当たり前なんだけど。だからさ、例えばラビが何か理由があってこの先ここに全く来れなくなったとしても、僕は『ラビが今日も来てない』ことしか分からなくて、それ以上のことはどうしたって知れないんだ。次いつ来るかも口約束で、それは、僕らの信頼関係で成り立っていて、何かのきっかけでそれがぷつりと途切れてしまったら、僕は果たして君が今日どんな風に過ごしているか、本当に生きているかどうかも分からない……すごく、脆い。脆くて、怖い」
そう淡々と話すセキの瞳は深い哀しみの色に染まっている。俺はその瞳を前にも見たことがあった。彼が自分の「片思い」について話してくれたときのそれだ。
それはきっと、彼の孤独そのものなのだと思った。
「ねぇ、セキ」
俺は彼の名前を一音一音確かめるように、丁寧に呼びかけた。
「僕は、セキに話していないことがある。別になんてことない……つまらない話だと思うんだけど、聞いてくれる?」
彼が横で頷いたのが気配で分かった。
「前にさ、初恋の話をしてくれたよね?僕はあの時……自分のそれについてよく覚えてないんだって君に話した」
「……うん」
彼はなぜ急にそんな前の話をこのタイミングで持ち出すのかと訝しんでいるようだった。
「それは嘘なんだ。僕の初恋は中学生の時だった。正確に言えばそれが恋というものだと認識した初めての恋がその時というべきかな。……すごくみじめなものだった。こんなこといいたくないけど、なんであんなやつ好きになっちゃったんだろうって思い出すたび後悔しちゃう。だからずっと、思い出さないように記憶の底に仕舞いこんでいたんだ」
セキは黙っている。というよりも、固唾をのんでこちらを見守っている、という表現が正しいような感じがした。俺は一度、深呼吸してから再び口を開く。
「よくあるパターンでさ、同じクラスのやつ。僕はあんまりクラスの人気者みたいなタイプが得意じゃなかったから……まぁこれは若干僻みもあるんだけど、そんなことはいいや。とにかく僕が好きになった奴は、いっつもなんか図書館で借りてきた難しそうな本読んでるような男の子だったの。僕は本とか集中して読めないタイプだからものめずらしくってさ、よく絡んでたんだよね」
何読んでんのそれ?哲学?ふーん、おもしろいの?どんな内容なの?当時すでに音楽に夢中で不登校気味だった俺は、おそらくクラスでは少し浮いていただろうし、たまにしか来ないそんなやつにめちゃくちゃ話しかけられるのも相当うざったかっただろうけれど、彼はそれなりに真面目で誠実な奴だったらしく、俺の質問にも律義に答えてくれていた。カントって何?それは人の名前?ふーん、そうなんだ。ニシダキタロー?それって妖怪出てくる話?
「大森はさ、りんごって分かる?」
「……馬鹿にしてんの?」
そういうわけじゃないよと彼は笑った。彼は口の端を釣り上げるようにして笑う。あまりかっこいい笑い方ではないけれど、おそらく癖なのだろう。
「うーんとさ、りんごは赤いってみんな知ってることだろ」
「青いりんごもあるよ」
いまそういう話じゃないんだよ、と男は顔を顰めた。眼鏡の奥の切れ長の瞳が不機嫌そうに細められる。俺は彼のいかにも賢そうなこの目がかなり好きだった。
「なんで知ってると思う?」
「なんで?だってそりゃ……そういうものだし」
「うん、そういうものって知ってるってことはさ、『認識』してるってことだ。じゃあさ、もし、大森がりんごのことを知らなくて、目の前にりんごが置かれてたらどう思う」
「……なんだこれ?」
「そう、『りんご』とは『認識』できないよな。だって知らないから。人間ってそういうものでさ、経験として知らないものは認識できないんだよ。だから実は僕たちが生きて認識している世界はめちゃくちゃ狭いんじゃないかって」
だからこんな世界に依存してたって仕方ないんだよ、僕たちは経験してないことの方が多いんだから、と男は珍しく語調を強めて吐き捨てるように言った。
あとで知ったことだが、男はいじめ、というほどではないがクラスで何かと揶揄いの的にされるような、そういう扱いを受けていたらしい。俺はほとんどクラスにいなかったのでそういう情報には疎かったのだ。
この「世界の認識」についての話をした後から、男の態度は少し変わった。有り体に言えば心を開き始めた。今までは俺が一方的に話しかけにいくものだったが、次第に男の方からも俺に話しかけてくることが増えた。なぁ大森、これ知ってる?こないだ話した相互作用の話なんだけど。あぁ、あれについてならあの本がいいかもな、今度貸そうか?え?本は読まない?じゃあ説明してやるよ。彼の話す哲学やその背景にある宗教や社会の話は面白かったし、彼から歩み寄ってもらえたことはその彼個人特有の世界に入り込むことを許されたようで嬉しくてたまらなかったのを覚えている。
でもそんな風にいわゆるちょっと「異なって」いる二人がつるんでいるのは周りからしたら格好のネタになってしまう。俺たち二人のことをありもしない憶測で面白がる連中も出てきた。
「な、ふたりって付き合ってんのぉ、ホモ?」
ある日、俺と話していた彼の背中を、クラスメートの男がわざとらしく高い声を出しながら小突いた。かぁっ、と彼の顔が赤くなる。これは悪いことをしたな、と俺は思った。俺は別にあまり学校に来ないし、何なら来なくてもいいし、同年代の「お子様」たちが何を言おうとお好きにどうぞと思っていたのだが、彼は年相応に傷つく心を持ち合わせていたのだ。でも彼はむきになって何かを言い返したりするほど愚かでもなかった。それとも俺の知らないところですでにそういう経験をしていて、自分が声を上げたところで彼らにとってそれは「面白いショー」に過ぎないのだともう察していたのかもしれない。
「ごめんね」
俺は彼とふたりきりになった時に謝った。彼は怪訝そうに俺を見た。
「なんで大森が謝るの」
「ん……だってさ、俺がそもそも話しかけたりしなきゃ、ああいう絡まれ方はしなかったでしょ」
男は、別にいいよ、と照れくさそうに言った。
「大森は特別だから。あいつらには好きに言わせておけばいいさ」
俺がその言葉にどれだけ喜びを覚えたか。全く行く意味のないと思っていた学校も、彼と話をするためなら少し意味のある場所になった。それを「恋」とラベリングしたまではよかったが、ここでもしかしたら彼も俺と同じように俺を思ってくれているかもしれないなんて期待をしてしまったのが、大森少年の純粋で、無知で、愚かな欠点だったと、今なら思う。
「俺ね、別に嫌じゃないよああいう噂」
いつもどおり淡々とした感じを装って、でも内心逸る鼓動を押さえつけながら俺は言った。彼は怪訝そうにこちらを見て、ちょっと笑った。
「なんでだよ、ふつーに嫌だろ、男との噂なんてさぁ」
「俺は……嫌じゃないもん」
なぜか、どこかで彼が受け入れてくれるような気がしてしまっていた。しかし彼の反応は予想していたもののどれにも当てはまらなくて、真っ白な顔色で
「なんだよそれ」
とだけ言って教室を出て行ってしまった。何となく俺は「失敗」したのだ、ということだけ分かって、でもそれ以上は何も考えられなかった。考えたくなかったのだと思う。
次に登校した時に、「イジッていいホモ」は俺一人になっていて、いびつに笑う彼は「あちら側」だった。振られたという事実よりも、周りの心無い中傷の言葉よりも、そのことが最も苦しくて、つまらなかった。
コメント
6件
もともともっくんて大人びた子どもだったんだろうなというイメージがあったから、過去のお話も違和感なく読めるのがすごいな、、 今回は特に苦しいお話だけど、何気なくこれまでのお話ともつながる部分や伏線回収があるのがいろはさんの作品のおもしろくって大好きなところ!✨
辛いですね……。信頼していた人、ましてや、ラベリングをした人にそのように言われるのは、記憶ごと無くしたい出来事だと想像できます。この背景であれば、どれだけ分かりやすいアプローチを受け取っても、鈍感に受け取るのも納得できますね。更新ありがとうございます
更新ありがとうございます✨ 辛い過去を話そうとした❤️君、どういった気持ちの変化があったんですかね。 セキくんなら分かって貰えると思ったからか…。 仮想の世界と現実の世界の接点がこの先あるのか、❤️君はどちらの相手にこれから強く惹かれていくのか、続きがとても楽しみです💕