テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
〜吉田side〜
今日は、勇斗があの居酒屋に行く日だ。
カレンダーの日付を見るだけで、朝からどうしても気が重かった。
ここ一週間の勇斗のあの浮かれっぷりを見る限り、今日は間違いなく定時で仕事を切り上げて、速攻であの人のもとへ会いに行くのだろう。
……柔太朗からの伝言なんて、忘れたフリをして伝えなければ良かった。
そんな、どこまでも最低なことを考えてしまう自分が、本当に嫌になる。
こんな調子で仕事に集中できるわけもなく、今日も気がつけば残業の沼に嵌まっていた。
まぁ、慢性的な人手不足のせいで常に残業続きの職場なのだが、今日ばかりはその忙しさが、思考を麻痺させるための唯一の救いだった。
……今頃あいつは、あの世界一幸せそうな顔をして、大好きな人と楽しく過ごしているんだろうな。
そう想像するだけで、胸の奥がギチギチと音を立てて締め付けられる。
結局、僕が会社を出たのは二十一時を過ぎた頃だった。
自炊をする元気も体力も残っておらず、閉店間近のスーパーに滑り込んで、半額シールの貼られたお惣菜をいくつか買って家に帰る。
静まり返った家に着き、部屋の明かりをつける。
でもその灯りがやたら眩しくて、電気を消して間接照明だけにした。
パックのままの味気ないお惣菜を食卓に並べ、「いただきます」と独り、誰もいない空間に呟いて箸を手に取る。
お腹は確かに空いているはずなのに、なぜか一口食べたら箸が進まなくなった。
口に入れたものの味もよく分からない。
結局ほとんどを残したまま、僕はまた静かに蓋をしてプラスチックのパックごと冷蔵庫へとしまい込んだ。
なんだか、久しぶりにこんなところまで深く落ち込んでいる。
さっきから、何度も何度もスマホを開いては閉じて、を無意味に繰り返していた。
液晶の画面は、ただ「通知0件」という冷厳な現実を映し出すだけ。
そりゃあそうだ。
今頃、勇斗は柔太朗と一緒にいるんだから。
僕なんかに連絡を寄越すわけがないし、思い出す暇すらないだろう。
分かっているのに、とてつもない虚しさが部屋中に広がっていく。
「……もう、やだ」
何もする気が起きなくなって、僕は衣服を着替えることすらしないまま、ソファのクッションに深く、身体を沈めた。
プルルル……プルルル……。
瞼を閉じかけたその時、静まり返った部屋に突如響いた着信音。
急な振動に心臓がドクンと跳ねる。
もしかして、なんて淡い期待を抱きながら大急ぎでスマホの画面を確認したけれど、そこに表示された「塩﨑太智」という期待とは違う文字に、僕は小さく溜息をついた。
通話ボタンを押すと、受話器の向こうからやけに陽気な声が聞こえてきた。
「あ〜、じんちゃん! 何してるん?」
「あー、別に何も。急に何?」
「……いや、じんちゃんさ、今日なんかずっと元気なかったやん。大丈夫なんかなぁ〜って思って」
電話の相手は、会社の同僚の塩﨑太智。
こいつとは小学生の頃からの付き合いで、いわゆる腐れ縁というやつだった。
そして、僕のこの秘密を太智だけが知っている。
僕が男しか好きになれないことも、勇斗にずっと片想いをしていることも。
なぜかこいつには、全部透けて見えてしまうのだ。
「あのさ……勇斗、好きな人できたって」
結局、促されるままに話してしまう僕も、相当弱っているのだろう。
「はぁ? また? 今度はどんな子なん? どうせまたすぐ別れるやろ〜、大丈夫やって!」
「……それがさ、男なのよ」
「……はぁぁ!? え、佐野さん男いけたん!? え、ちょっと待って、じゃあ、じんちゃん大チャンスやん!!」
「……違う。男を好きになったんじゃなくて、その人のことが好きになったんだって。それがたまたま男だっただけ」
太智の声から、さっきまでの軽さがフッと消える。
僕は、自分で言葉にしてその意味の残酷さに気付いて、胸がギチギチと苦しくなった。
「俺はさ……俺が男だから、勇斗に好きになってもらえないんだって、ずっとそう思って諦めようとしてたのに……そうじゃなかったみたい。
ただ、俺自身に……人としての魅力がなかっただけ、なんだよ。あぁ、あほらしい」
絶対に泣きたくなんてないのに、熱い涙が勝手に溢れて、頬を伝って流れ落ちていく。
必死に声を殺して息を詰める僕に、受話器の向こうから、静かな、だけど優しい太智の声が届いた。
「なぁじんちゃん、今から行ってええ?」
「……っ、別に……、……」
「……行くからな?」
「……、うん、きて、」
気づけば、そんな言葉が口から零れ落ちていた。
僕は、太智の差し出してくれた真っ直ぐな優しさに、甘えることにした。
それから十分も経たないうちに、玄関のチャイムが鳴った。
僕はソファから体を起こす気力すら湧かなくて、手元のスマホを叩いて「鍵、開いてる」と素っ気ないメッセージを1行だけ送った。
カチャリとドアの開く音がして、廊下を歩く足音が、リビングへと近づいてくる。
「あーあ、じんちゃん。相当荒れてんなぁ…」
苦笑いを浮かべた太智がぶっきらぼうにタンブラーを差し出してきた。
「じんちゃんの好きなあそこの店のコーヒー。温かいの買ってきたから」
「……さんきゅ」
太智は僕との距離を埋めるようにソファの隣に腰掛けた。
僕は泥のように重い身体のまま、温かいコーヒーの苦味を口に含み、電話で吐き出した惨めな現実の残滓を反芻するように、ぽつりと呟いた。
「……男とか女とか、そういう問題じゃなかったわ。ただ俺に、魅力がないだけだった」
自嘲気味に笑って視線を落とす僕の姿を、太智はまっすぐに見つめた。
それから、少し呆れたように、だけどひどく優しい声で言った。
「……なんだよ、」
「んー?……いや、やっぱ、はやちゃんって致命的に見る目ないなぁ、と思って」
「……何それ。気を遣ってんなら、気持ち悪いからやめろ」
「なんで僕が、じんちゃん相手にわざわざ気を遣わなあかんねん。じんちゃんを好きにならんはやちゃんが、僕には不思議やわ」
太智はソファの背もたれに腕を回しながら、信じられない言葉を滑らかに紡いだ。
「こんなに、かわいいのに」
低く、だけど妙に鼓膜に優しく残る声。
「……、は!? お前、まじでからかうのやめろって……」
一瞬、何を言われたのか理解できず、完全にパニックになりかけた僕が顔を真っ赤にして睨みつけると、太智はさらに顔を近づけて、いたずらっぽく目を細めた。
「何が?僕、別にからかってへんよ。思ったこと、そのまま口に出して言うてるだけやん。かわいいって。
じんちゃんさぁ……、いつまで、はやちゃんのこと好きでいるつもりなん?」
不意に投げかけられた言葉に、僕は声を失った。
「……もう、僕にしたらええやん」
「……っ、な、に……? それ、どういう意味だよ……」
思考が完全にフリーズするなか、かろうじて喉の奥から絞り出した僕の震える声に応えるように、太智の大きな手がそっと僕の頬に触れた。
予期せぬ体温の接触に、心臓が跳ねてびくりと身体が強張る。
「別に、そのままの意味。僕にしとき?」
そう言って、僕の頬を親指の腹で優しく撫でる太智。
あまりの衝撃に、頭の芯が真っ白になりそうだった。
――いや、待て。
あ……危ねぇ。
騙されるところだった。
そうだ、冷静になれ。
これは嘘だ。
こいつの得意な、悪質なドッキリに決まっている。
だって、あの太智が僕を好きになるなんて、そんなわけがないじゃん。
あー……恥ずかしい。
またこいつの口車に乗せられて、本気で動揺しちゃったよ。
はぁ、もう本当に何なんだよ、心臓に悪いな。
……でも、よかった。
嘘で。
「はぁ〜、まじお前!変な冗談やめろよ!普通に無理だろ、お前と俺なんて!!ははっ、あ〜……まじでびびったわ!」
冗談だと決めつけることで、僕は心底安心した。
あぁ、よかった、いつも通りの日常だ、と。
だが、そう笑い飛ばした直後、太智の顔を見て、僕は自分の血の気が一瞬で引いていくのを感じた。
太智が、明らかに、傷ついた顔をしていたから。
その表情を見た瞬間、自分が今、絶対に言ってはいけない最悪の言葉を放ってしまったことに気づいた。
『普通に無理』
男しか好きになれない僕自身が、世間の言う「普通」の枠から外れて苦しんできたのに。
勇斗に男として見てもらえず、どれだけ傷ついてきたか痛いほど分かっているのに。
それをそばでそっと支えてくれたのはこいつなのに。
それなのに俺は、よりにもよってこいつに…。
その一番言われたくない残酷な言葉をナイフみたいに突き刺してしまった。
普通でもない僕が、勝手に普通を語って、相手を踏みにじって。
……本当に、最低だ。
「……は、ははっ!そんなわけないやん! 嘘やで?嘘嘘!!」
太智は無理やり口角を上げて「嘘」だと笑った。
それが今のこいつの精一杯の「何でもないフリ」なんだってことくらい、十年以上一緒にいる僕には痛いほど分かってしまう。
その時だった。
静まり返った部屋に、僕のスマホの着信音が鳴り響いた。
画面に表示されたのは、さっきまで僕がずっと待ち焦がれていた人の名前だった。
心臓が跳ね上がり、僕は思わずソファから立ち上がった。
「……はやちゃんから?」
画面を盗み見た太智が、一瞬だけ苦しそうな顔をして、小さく僕の背中を押した。
「出なよ」
「うん……ごめん」
僕は通話ボタンをスライドした。
「もしもし、勇斗?」
……応答がない。
ただ、受話器の向こうから、息を殺して必死に鼻をすする掠れた泣き声が聞こえてきた。
いつも太陽みたいに笑うあいつの、こんなに脆い嗚咽なんて聞いたことがなかった。
「おい、勇斗? どうしたんだよ。なぁ、何があったんだ!?」
思わず声を荒げる僕のすぐそばまで、太智が心配そうに駆け寄ってくる。
「……びょういん、」
やっと届いた掠れた声に、巨大な不安が頭を殴りつける。
「は? 病院って……なに、お前どうした!?」
「違う……俺じゃない……っ。柔太朗が、ひどい怪我して……っ。
今、みなと総合病院の救急にいて……、
仁人……俺、どうしたらいい……? っう、うぅ……」
堰を切ったように泣きじゃくる勇斗。
あぁ、そうか。
勇斗はあの男のことで、こんなにもボロボロになって泣いているのだ。
しかし、勇斗の苦しそうな泣き声が、こんなちっぽけな嫉妬に囚われている場合じゃないと、頭の温度を一気に冷えさせる。
「落ち着け。今からすぐ行くから、そこで待ってろ」
僕は通話を切った。
スマホを握る手が、じんわりと汗ばんでいる。
to be continued……
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
#M!LK
𝕔𝕠𝕔𝕠
7,480