テラーノベル
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午後三時。チャイムはとっくに鳴り終え、昇降口からは靴音すら消えていた。
誰もいないはずの教室の一角に、遥はいた。窓際の席に頬杖をつき、外を見るでもなく、机に置かれたペンを指先で転がしていた。かすかな音が、静寂に溶けていく。
「……まだ、いたんだ?」
声がした。振り返らなくても、誰かは分かっていた。
蓮司だ。
軽い足取り。けれど、音は妙に重い。遠慮なく近づいてきて、遥の机の前に立つ。視線を受け止めるのが怖くて、遥は俯いたままだった。
「こんなとこで、何してんの?」
問いはやさしい。だが、やさしさが薄皮一枚をなぞっているだけだと、遥は知っている。剥がされるのを、ただ待っている皮膚のように。
「……帰ろうと思ってた」
「へえ。そうなんだ。でも、帰ってないよね?」
蓮司はそう言って、机に片手をつく。そのまま身をかがめて、遥の顔を覗き込んだ。近すぎる。逃げるように視線をそらすと、蓮司はくすりと笑った。
「……なんで逃げんの。オレ、なんかした?」
してないと言えば嘘になる。してると言えば──
「……別に。してない」
喉が詰まったように乾いて、声はかすれた。
「ふーん……そっか。じゃあ、さ」
不意に、蓮司の指が遥の顎に触れた。そっと持ち上げるようにして、遥の視線を自分に向けさせる。
「さっき、日下部に言ってたよね。『そういうの、やめろ』って。あれ、よかったよ。……正義感?」
揶揄ではない。笑ってもいない。ただ真っ直ぐで、その真っ直ぐさが歪に思えた。
「別に……正義とか、じゃなくて……」
「うん。そういうとこ、好きだよ。──でも」
蓮司の手が、少しだけ強く遥の顎を握った。
「だったら、なんでオレのときは黙ってんの?」
声が低くなった。囁きのようでいて、教室の壁にまで届きそうな圧を孕んでいる。
「オレが、おまえのことどう触ったって。どう言ったって。おまえ、なにも言わないじゃん。──なのに、日下部のときだけ、助けたの。どうして?」
問いは直球だった。遥は言葉を失った。反論も、否定も、言い訳も、頭のなかでぐるぐる回って、けれど一歩も口まで届かない。
蓮司はそれを見つめていた。見下ろしていた。
こいつは、たぶん──わかってる。
わかっていて、尋ねている。答えの先にある反応を、もう想定している。
沈黙に、蓮司は満足したように目を細めた。
「──嘘つきだね。遥」
それだけ言って、手を離した。顎の皮膚が少し熱を持っている。蓮司は踵を返し、出口に向かって歩き出す。けれど、途中でふいに立ち止まった。
「ねえ。オレって、ほんとに“なにか”してると思う?」
振り返らずに、それだけ問うて。
遥は、答えなかった。
教室に残った静けさが、重く降りてきた。
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