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「ガッチさんこれ、不倫ですよ。最低の」
***
――悪いことをしてる自覚はあった。お互いに。
家庭、妻、あるいは『男』という属性。どこを切り取っても、二人交わることが許される肩書きなんて存在していない。
だがそれ以上に、背徳感という毒がまともな倫理観を溶かしてしまい、思考の端から甘く痺れさせていったのだ。
だから、仕方ないだろう。
活動が十年を超えれば仲間は一人また一人と平穏な日常へ擬態していき、やがて消える。当然だ。いつまでも画面の向こうで騒いでいる奴なんてどこか壊れてるに決まっている。
もちろん俺もその一人で、俺の隣で共に狂っていられる奴があと三人。
「ガッチさん」
彼らにそう呼ばれるのはひどく心地が良かった。慕われ、愛されているという実感が、乾いた自己愛を潤していく。
そして俺も彼らへ均等に愛を分配している“つもり”だった。
……自覚が無かったんだろう。
録画ボタンが赤く灯っている時も、そうでない時も。四人で騒いでいる時も、二人きりの時も。
『牛沢』という男は驚くほど無防備に俺を肯定する。
俺が画面の中で何かを成し遂げれば彼は「かっこいい」「さすが」と、手垢のついた称賛を初めて口にする子供のように、純粋に投げつけてくる。助けが必要な時、俺を呼ぶその声には全幅の信頼と甘えが滲んでいるようだった。
この歳になってあそこまで真っ直ぐに自分を差し出せる人間を、疎ましく思えるはずがない。
――その心地よさに身を任せていた結果が、これだ。
均等に、平等に。そう自分に言い聞かせながら、俺は誰よりも彼を……甘やかし……甘やかされていたらしい。
***
「俺って、君のこと甘やかしすぎかな」
「……ってレトルトは言ってたけどねぇ」
「そっかぁ……」
核心を逸らすような締まりのない相槌。
思考を放棄したまま、なんとなく次の言葉に詰まって上を見た。
「満月だ」
「ほんとだ、すげぇ」
驚くほど中身のないキャッチボール。アルコールで熱を持った俺たちにはその頼りなさがひどく心地良い。
四人で集まったのは何ヶ月ぶりだろうか。酒を飲まない年下二人が賑やかに平らげるのを眺めながら、俺たちもそれなりの量を煽った。
酔いに任せて思考のスイッチを切る。会計の数字を追うことすら億劫になって、「俺が奢るよ」とカードを差し出した。その後の記憶は夜風に吹かれてどこかへ霧散していた。
「うっしー」
「んー?」
「会計いくらだった?」
「ガッチさん、伝票見ずに払ったの?」
「うん。なーんも覚えてない」
「あはっ悪いとこ出てんなぁ」
呆れたようなその笑い声が耳の奥を甘くくすぐる。こんな些細な不注意さえ彼は嬉しそうに拾い上げてくれるのだ。罪悪感なんて、とうの昔にアルコールと一緒に飲み干してしまった。
隣を歩く自分より少しだけ小柄な背中。
俺はただ、飼い慣らした愛玩動物を愛でるような、取り返しのつかない過ちを慈しむような視線で彼を見つめていた。
***
夜風は思ったよりも冷たくて、火照った頬を静かに撫でていった。
駅までの道はやけに長く感じる。コンビニの明かり、タクシーのヘッドライト、遠くの踏切の音。どれも現実に引き戻すには十分なのに、隣を歩く体温だけが妙に非現実じみている。
「……ガッチさん」
呼ばれてそちらを見る。
牛沢は俺を見上げて、少しだけ眉を寄せていた。酔いのせいか、それとも別の何かか。普段は飄々としているくせに、こういうときだけ妙に真面目な顔をする。
「さっきの話さ」
「さっき?」
「レトルトが言ってたやつ。俺のこと甘やかしすぎって」
「ああ」
思い出したように頷く。確かに、そんなことを言われた気がする。あいつは冗談めかしていたけれど、あながち間違いでもない。
「どう思う?」
「どうって……」
彼は視線を前に戻した。街灯に照らされた横顔は、いつもより大人びて見える。
「俺は別に、困ってないけど」
「困れよ」
「なんで」
小さく笑い合う。その何気ないやりとりが胸の奥にひどく沁みる。
困っていないのだ。彼は本当に、困っていない。俺が与えるものを当たり前のように受け取り、同じだけ、いやそれ以上に何かを返してくる。無自覚に。悪気もなく。
それがいちばん厄介だ。
改札が見えてきたところで牛沢が足を止めた。
「今日は送らなくていいよ」
「なんで」
「酔ってるし。家族に怒られるでしょ」
その単語が、静かに落ちる。
俺は一瞬だけ息を止めた。酔いがすっと引く。
「怒られないよ」
「怒られたほうがいいって」
冗談みたいな声色だったけれど、その目は笑っていなかった。
改札の電子音が、一定のリズムで鳴っている。人の波に紛れればこの会話も、俺たちの距離も、なかったことにできるのに。
「……なあ、うっしー」
「ん?」
「俺らさ」
言葉が続かない。何を確認したいのか、自分でもわからない。ただ曖昧なままにしてきたものが、夜の静けさの中で輪郭を持ち始めている。
牛沢は少しだけ首を傾げた。
その仕草が、どうしようもなく愛おしいと思ってしまう。
均等に、平等に。そう言い聞かせてきたはずなのに。
俺はきっと、どこかで線を踏み越えている。
「ガッチさん」
今度ははっきりと、名前を呼ばれる。
視線が絡む。逃げ場がない。
「これ」
彼は一歩だけ近づいて、声を落とした。
「不倫ですよ。最低の」
責めるでもなく、断罪するでもなく。ただ事実を述べるみたいに、淡々と。胸の奥で、何かが静かに崩れる音がした。
「……知ってる」
驚くほど素直に、言葉が出た。悪いことをしている自覚はあった。お互いに。
家庭。妻。肩書き。年齢。どこを切り取っても、正当化できる理由なんてひとつもない。それでも。
「やめる?」
牛沢が聞く。
簡単な二文字。しかしその先にあるものは決して軽くない。
俺は少しだけ考えるふりをして、空を見上げた。
さっき見た満月は、ビルの隙間に半分だけ隠れている。
「……今日は寒いな」
「話逸らした」
「逸らしてない」
「逸らしてる」
小さな押し問答。くだらないやりとり。
それが、ひどく救いだった。
やめる、やめない。白か黒か。そんなはっきりした答えを出せるほど、俺たちは若くも純粋でもない。
ただ今この瞬間、隣にいることを選び続けているだけだ。
「電車来るよ」
「うん」
彼は改札に向かって歩き出す。数歩進んでから、振り返った。
「ガッチさん」
「ん?」
「ちゃんと帰ってくださいね」
「子ども扱いすんな」
「してない。心配してるだけ」
その言葉がやけに優しい。
改札を抜ける直前、彼はもう一度だけ俺を見た。
「……最低でも、俺は嫌いじゃないから」
小さく笑って、背中を向ける。
電子音が鳴る。
人波に紛れて、姿が見えなくなる。
取り残された俺は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
夜は静かだ。さっきまでの喧騒が嘘みたいに。
ポケットの中のスマホが震える。画面を見る勇気はない。きっと帰るべき場所が、俺を待っている。
それでも、胸の奥にはまだ彼の声が残っている。
――ガッチさんこれ、不倫ですよ。最低の。
その響きが、責めるでもなくただ柔らかく、甘い。
俺は小さく息を吐いた。
「知ってるよ」
誰に向けるでもない独り言は、夜風に溶けて消えた。
歩き出す。帰る方向へ。
足取りは重くも軽くもない。ただ、ぬるま湯の中を進むみたいに曖昧で、確かで、どうしようもなく心地いい。
満月は雲に隠れたまま、何も言わなかった。