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優秀なる魔法使いドニャが人生で初めて死を覚悟した時、濡れた夜闇が手招きしているように思え、暗い野原は死者の褥のように見えた。自分ほどの存在が他者に痛めつけられるはずがないという傲りは何より心に深く突き刺さり、自身を助ける気力さえ奪った。
しかしドニャの人生は滞りなく進んでいく。親切な人間という者には何度か出会ってきたし、ドニャを助けてくれた人々が特別善良な人間だったわけではないかもしれない。しかし人生で最も打ちひしがれていたドニャにとって迷い込んだ村で手厚く介抱してくれた彼らは人生最大の恩人だった。
まるで世に悪があることを知らないかのような温厚な村長、余所者にさえ楽しげに薬草術の奥深さを語る女性美しい星。怪しげな魔法使いを厭わない村の人々。誰のことも忘れられない。
しかし多くの魔法を修めるドニャだが、彼らを助けるような平穏で穏当な魔術は持ち合わせていなかった。特に目的意識もなく大陸を彷徨っていたドニャはそれから数年間、彼らを助けるための魔術を身に着けるべく旅に出た。
そして、ある夏の正午の日差しに輝く丘陵の向こう、地平線の陰から街の輪郭が昇ってきた時、多くの慈善的魔術を修めた魔法使いドニャは我が目を疑った。
何年か前にこの土地を訪れた時、そこは素朴な村だった。土壌が良いのか実りが多く、四季折々に姿を変える美しい森があり、銀に煌めく鱒の獲れる穏やかな川が流れていた。ただ丘陵の複雑な地形が人の往来を難しく、生活を多少困難にはしていたが概して豊かな土地だと言えた。人々は自然の恵みと勤勉な労働によって糧を得、都市に蔓延り人心を誘惑する財物は少なくとも、幸いと喜びに満ちた営みを送っていた。
そして何より、余所者の魔法使いのドニャにも分け隔てなく親切で、人生の底から掬い上げてくれた善良な人々の住む恩義ある土地だった。
それが今やどうだろう。かつての村にあった面影は露と消え失せ、巨大な建築物の立ち並ぶ都市が大地に拡がっていた。高い城壁に囲まれ、土地の形を気にせず引かれた真っすぐな道路、小さな谷に覆いかぶさる石造りの拱門橋、交差点には何かの偶像が建立され、縦横に上水道が行きかい、おそらく下水道も整備されているだろう。劇場らしき派手な装飾の建築、何に祈っているのか分かったものではない荘厳な神殿、塔、塔、塔。
「一体全体、何が起きればこんなことになるんだい?」誰にともなくドニャは呟く。「これはこれで悪くないとは思うけどね」
ドニャは通りを歩きながら少しずつ気分が悪くなってきた。都が嫌いなわけでも人が嫌いなわけでもないが、かつての素朴な水車と藁葺きの美しい村が堤堰と銅葺きの厳めしい都に様変わりした事実に圧倒されてしまった。積み上げられた石が、街を訪れるまでドニャの中にあった郷愁に似た感情を圧迫する。
それに、人々の様子もまるで違う。生きるために働いていた者たちが、働くために働いているかのような忙しなさだ。そもそもずっと人口が増えていて、今でも村長やヴォタナ以外の村人も全員の顔と名前を憶えていたドニャとしては誰一人知人に会えず、何か間違って別の土地に迷い込んでしまったのではないか、と考え始めていた。
「恩返しをしに戻ったのに、誰にも会えやしない」とドニャは一人呟く。「そもそも、恩返しする余地ある? みんなきっと満たされている」
とにかくどこかで休もうと彷徨って見つけた広場も他の都と変わらない。演説を打つ者、休息する者、討論する者たち、ありふれた光景だ。ドニャは長椅子に座り、心を落ち着かせて生まれ変わった都を眺める。
まるで一人一人が訓練された兵士のようにきびきびと歩いている。それに広場は常に人がいて、増えすぎることも人がいなくなることもなかった。どころか、一人が広場を出ていくと一人が広場に入ってきて、十人が広場を出ていくと十人が広場に入ってくることにドニャは気づく。まるで示し合わせたようじゃないか。
そこに気づくとさらに気づく。通りを歩く人々はきっちり同じ速度で歩いていて、急いでいる者も立ち止まっている者もいなければ、並んで歩く者も他者を押しのける者もいない。滅多に人同士がかち合うことがなく、そうなったとしても互いに譲り合うのではなく、もちろん先んじようとするわけでもなく、まるで初めからどちらが優先されるべきか決まっているかのような迅速さでささやかな渋滞は解消される。
思いのほか不気味な光景であることにドニャは気づいた。何かおかしなことが起こっている。
「もう少し警戒するべきだったね」ドニャは柔らかな掌を広げて見つめる。「一旦、街を出るか、いや――」
「ねえ、お姉さん」と鈴の鳴るような声を掛けられ、ドニャは振り向く。
目の前に現れた少女に見覚えはない。まるで貴人のような華やかな衣装をまとっていてどこか浮世離れした雰囲気だ。ドニャを見つめていながら、遠く離れた土地に思いを馳せているような、居心地の悪さを感じる。
「旅の人? 魔法使いだよね? 隠しても分かるんだから」
「どっちも正解。別に隠しやしないよ。どうして分かったんだい?」
ドニャの服装は旅装としては珍しくもない格好であり、魔法使いにしては普通に過ぎるくらいだ。長い茶色の髪には魔法を補う不思議な力が宿ってはいるが、見て分かるものではない。普通じゃないのは色褪せた革の背嚢が少し大きいことくらいだが、常人の域を出てはいない。中身も単に路銀稼ぎの商品が入っているだけだ。
「やっぱりね。だってこの街に囚われていないもの」と少女は微笑み混じりに答える。「だからお願いがあるの。聞いてもらえる? いいよね?」
「聞くだけならたださ。願いを叶えられるかはご相談だね」
少女は声を潜めるでもなくはっきりと話す。
「この街の支配者遣う者から街の人々を解放してほしいの。お姉さんならできるんじゃないかって思ったの、お願い」
「いいよ」とドニャは即座に答える。
少女は初めてその表情に分かりやすい変化を起こす。目と口を開いて、耳を疑っているようだ。
「安請け合いしていいの? 自分で言うのもなんだけど怪しくない? 僕みたいなのが突然現れてさ」
「いいのさ。あたしにも事情があってね」ドニャは忙しそうに行きかう人々に目を向ける。「この有様の原因がそいつなんだろう? クークーラとやらを懲らしめたところで、かつての村が戻ってくるわけじゃないけど理由くらいは知りたいね」
「僕に分かるのはクークーラなる者が人々を操っていて、ひたすら街の発展のために働かせているってことくらいだよ。あとはドニャさんに任せるしかない。でも僕、ドニャさんなら何とかできるんじゃないかって、もうほとんど確信に近いものがあるよ」
輝く星と名乗る少女はドニャを案内するように街を巡る。柔らかな土を覆い隠した石畳の大通り。街を縦横に格子状に伸びる沢山の道路。行き交う人々は統率された軍隊のようで、踏み鳴らす靴音には奇妙な秩序がある。人々が真夏の陽光を浴びて投げかけられた黒い影もまた適切な距離を保って行進している。ドニャは古びた革の背嚢を揺らしながら少女についていく。そして誰にも悟られない程度に苛立つ。とめどなく聞こえる靴音の律動に釣られるのが気に食わないのだった。
ドニャは溜息をつく。妙なことになった。思う存分恩を返したなら落陽のヴィリア海を観に行くつもりだったが、少しばかりお預けだ。
ドニャは事情を探る。「ともかく何であんたは支配されてないんだい? あたしもそうだけどさ」
「それは分からないね」コマティは首を横に振る。「僕は魔法使いじゃないもの。でもドニャさんは魔法使いだものね。だから魔法使いかどうかは関係ないってことは僕にも分かる。ね? そうだよね?」
「そもそもどこでクークーラのことを知ったのさ。はっきり言って、あたしはあんたが実は支配されていて、これが罠である可能性が一番高いと思ってるよ」
「そう思うのも無理はないし、否定する材料もないよ」コマティは残念そうに眉を寄せる。「無理を言うようだけど、僕に警戒しつつことに当たってもらう他ないんじゃないかな。でもドニャさんなら大丈夫だよ。それは僕にも分かる。だって今まで沢山の魔法使いがやってきたけど、みんな今では街の発展のために尽くしているからね。ドニャさんが何かすごい身を護る魔法を持ってるわけじゃないの?」
コマティは目を輝かせてドニャの答えを待つ。ドニャは期待通りの答えを用意する。
「そりゃ持ってるけど、これだけの大人口を支配下における魔法使いなら、あたしのことだって攻略できそうなもんだよ。ってことは支配するための条件が難しいのかもね。たとえば本人の目の前に引っ張り出さないといけないとか」
「だとすれば僕は今まさにクークーラのところにドニャさんを連れて行こうとしているのかも、って疑われてるんだね?」
「ご名答」
というのは嘘だ。疑いなどではなく、コマティ自身が黒幕だとドニャはほぼ確信している。あとは本人なのか、彼女もまた操り人形なのかどうかだけだ。
操られない理由の方は確信している。しかしまだ無茶はできない。支配下に置かれている人々を人質に取られれば、魔法を使われることなくドニャは操り人形になってしまう。
鋭い尖塔の周りにたむろしてのんきに鳴いている鳩を見上げる。人と違って自由なように見える。
ドニャは何かに追われるように行き交う人々を目で追い、知っている人間はいないかと探しながら呟く。「しかし何だね。住人全員を支配しているってことは犯罪とかも起きないってことさね」
「それはそうだね。でも支配自体が犯罪的じゃない?」とコマティは修辞的疑問を発する。
「もちろんそうさ。肯定するつもりはないよ。しかし街を発展させて何がしたいのかね。普通に考えれば富を享受する立場の人間を疑うけど、これだけの支配が可能ならそもそも直接自分のために人々を隷属させれば良い話だし、それにわざわざ一から村を発展させる意味も分からない」
かつての村の人々も村の発展は望んでいたかもしれない。都への憧れくらいはあったかもしれない。
人の流れは不規則に動き回るドニャたちによって多少は滞るがすぐに修正されている。誰か俯瞰している統率者が全てを決定しているかのように。
ドニャは人の流れなど気にせずに立ち止まり、ある一点を見つめる。大量の木材を運んでいる樵らしき集団の中に薬草術に通じた女ヴォタナがいた。
ドニャはかつての恩人の元に駆けよって声をかける。
「ヴォタナ。久しぶり。ひとまず無事で安心したよ」
ヴォタナは振り返り、無表情でドニャの顔を見つめ、小さく頷く。
「久しぶりね、ドニャ。元気だった?」
覇気のない目をしているが、少なくとも意思を奪われているようには見えない。
「元気だよ。お陰様でね。ところで一体何してるの? 樵に転職したとか?」
ドニャは冗談のつもりだったが、ヴォタナはやはり小さく首を振る。
「ええ、そうよ。私には才能があったから」
「才能? だから薬草術を究めんとするのはやめたの? とても熱意を感じたんだけど」
「熱意は、そうかもしれない」
「この木は近くの森から? 多様な薬草はもういらなくなったの?」
「でも私の才能は別のところにあったの。活かすべきだと思わない?」
「思わないよ」
それだけ言ってドニャはコマティの元に戻る。不機嫌さを隠さずにコマティを見下ろす。
「どうやらクークーラは街を発展させるためなら個々人の人生を顧みることはないようだね」
「どうしてだと思う?」とコマティが尋ねる。
「知りたいのかい?」とドニャが尋ね返す。「知りたいとすればそれはコマティなのか、クークーラなのか、どっちかねえ」
ドニャはコマティの緑の目の奥から覗いている者を見つけたかのようにじっと凝視する。
「やっぱり僕を疑ってるんだね?」
「そりゃそうさ。支配されないのは支配者だけだからね」
「じゃあ教えてよ。何でドニャさんは支配されないの?」
「簡単さ。あたしはより強い力で支配されているからね」
コマティは意味を掴みかねて顔を顰める。
「あんたの頑なな態度と助けにならない程度の助けから察するに、あんたもまた魔法の命令を受けているんだろう?」
コマティは首を傾げる。
「僕もまたクークーラに操られていると?」
「いや、あんたのような札の魔性をあたしは知ってるのさ」
街を行き交う人々が一斉にこちらへ顔を向け、一斉に押し寄せる。
しかしそれよりずっと早くドニャが呪文を唱える。それは邪悪な者を磔にする強力な呪文であり、ドニャでさえも普通ならば長い時間を要する複雑な魔術だ。そこには最初の咎人に投げかけられたおぞましい呪いの言葉が含まれ、刑吏の守護者たる火刑神に捧げるべき祝詞に擬して、三十行にも及ぶ詩には蛮地でのみ使われる異質な発音さえもが含まれている。
次の瞬間、コマティは石畳を突き破って飛び出してきた刑架に捕らえられ、すぐさまドニャがコマティの服の中に手を突っ込むと裏面に奇妙な粘着性のある一枚の札を剥がした。表面には操り人形のような猪が描かれている。
途端に周囲の人々全て糸が切れたようにその場に倒れた。
「こりゃまずい」
ドニャは再びコマティの首筋に札を貼り付ける。ただしいつでも剥がせるように手を添えたまま。コマティ、あるいはクークーラが意識を取り戻す。
「さすがドニャさんだね。でもまだよく分からない。人を操る僕の魔法よりも強力な支配の魔術が本当にあるの?」
「勝手に動くな」ドニャは警告する。「あんたもよく知ってるはずだよ」
ドニャが自身の首筋に手を伸ばして、魔性の札を剥がして見せる。こちらは刑架を持つ犬の絵が描かれていた。
「僕以外にもいたんだ」クークーラは感慨深そうに呟いた。
ドニャはクークーラの感傷など気にも留めずに命じる。「さあ、まずは一旦人々を支配しなおして全員帰宅させて寝台に寝かせな」
「命令しないでよ」と反抗しつつもドニャの言った通りに人々が動き出した。
「それで何でこんなことしてたんだい?」
ドニャはクークーラにいくつかの命令をし、安全の確信を得ると再び広場へと戻った。
「そう命令されてたからさ。たまたま僕を見つけたかつての村長さんにね。持てる力を尽くして村を発展させろってさ。だから僕の力でできる限り効率よく発展させてたんだ。適切な人材に適切な労働をさせて、できる限り無駄なく無理なく労働と休息を繰り返させてた。ああ、元村長さんは探しても無駄だよ。彼は兵卒の素質があったから」
ドニャは溜息をつき、長い支配から解放された街の静寂に耳を傾ける。
「村長が、ね。良い人だったんだけど、下手を打っちまったんだね」
「そういうこと。僕に解釈の余地を与えてしまったんだ」クークーラは自嘲する。「だから僕は命令されてない範囲で助けを求めてきた。やっと上手くいったよ。さすがだね、ドニャさん」
「それで? どうしてみんな動かなくなったんだい? あんたの言う通りなら無理な労働をさせていたわけじゃないんだろう?」
「うーん。人間のことはよく分からないけど、久しぶりの自由を得て、どうしていいか分からなくなったんじゃない?」
「そんなことあるかねえ。あんたが自由を求めていたように、みんなも自由を求めていたんじゃないの?」
「ああ、違うよ。そこは誤解があるね」クークーラは弁解するように否む。「僕の場合は従いたくない命令に抵抗空しく従わされていたわけだけど、僕の支配はみんなの内心よりもさらに深いところに及んでいるからさ。抵抗も何も彼ら自身は自ら選択している気になっていたはずだ。その実、彼らは考える必要がなくなっていた。言うなれば僕が運命の代わりをしていたのさ」
事態は想像以上に悪いことになっていたらしい。
「つまり人々が倒れたってことは、意識が摩耗している? 下手したら失われてしまったかもしれないってことかい?」
いわば物心がつく前の状態になっているのかもしれない。
「そうかも。でも僕を責めないでよ。やりたくてやったんじゃないんだから」
責めるつもりはないが、この事態を解決する可能性があるのもクークーラだけだ。
「ならあんたがあんたの持てる力を尽くして彼らにまともな生活ができるようになるまで支えな、と命令するよ」
「そんな! 酷い! 僕は悪くないのに!」
「そうさ。そして彼らも悪くない。運命共同体ってやつさ。受け入れな。全員が回復したなら今すぐにでも命令行動を終了していい。誰も元に戻らないならせめて最後まで人形劇を演じるんだよ」