テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
一年を通じて銀の冠を戴く粉雪山地の足元には縦に横に穿たれた深い深い穴がある。冷たく暗いが頭上に聳える冬の夜の山の頂に比べれば温かく、夏の夜の星空に比肩するべくもないが、輝く鉱石は洞穴の隅々を弱々し気に照らしている。まるで幾世代を経た蟻の巣のように入り組んでいるが、一つ一つの洞は三十歩ほどの広さを有し、所によっては地上の国々でさえも珍しい頑丈な舗装が為されている。天盤を支える柱は地下の国々にも名高い梣を模し、天井には雲の散りばめられた空の彫刻が施されている。
その複雑な陰影の暗闇に満ちた地下の道路に只人たる地上の若者、折れぬ剣が潜んでいた。幾多の冒険に鍛えられた肉体は隠者の土地にも物怖じせず、涼し気な双眸は闇の中にあって理知に輝いている。しかし隠しきれぬ貴き血筋の現れた顔貌には度重なる苦難が滲み出ていた。
長らく暗闇に潜んでいた為にエルガゼスの目は順応したが、今にも通路に並ぶ柱の陰から何者かが飛び出してくるのでは、と警戒するように慎重に歩を進める。地上の生まれながら地下に挑む無謀な男エルガゼスは我が手の如く使い慣れた短剣を握り、血に汚れた地図をもう一方の手に、獲物を付け狙う狐のように注意深く、しかし躊躇うことなく無限に続くように感じられる光無き地下道を行く。
果たしてたどり着いたのは、四隅に据えられた篝火の揺らめく、通路よりは広い空間だった。壁に渦巻きのような神秘的な模様が彫り刻まれた神聖な室の最奥で石窟偶像がエルガゼスを出迎える。隠れたる神の現身の背に負う影はより大きくより黒く、誰であれ来訪者を圧倒する。
エルガゼスは何度も何度も後ろを振り返ってついてくる者のいないことを確認し、室の中が無人であることも確かめる。しかし篝火が灯されている以上、何者かが出入りしているのは間違いない。エルガゼスはできうる限り迅速に行動する。
緊張感はエルガゼスが持ち込んだものではあるが、その空間には厳かさを強いるような不思議な力が満ちているように感じられた。エルガゼスの額から頬を伝い、顎から汗が滴り落ちると、その石の地面に滴下するささやかな音でさえも地下空間に響き渡る。
エルガゼスは異教の神とて最低限の礼儀を以て敬う男だったが、その両眼に洞のある盲の女神には不敬を働いた。胡坐をかく女神の膝に這い上り、太腿を渡り、腰から腕、腕から肩、そして乳房の上に飛び乗ると一息つく。再び室の入り口を振り返り、この罰当たりな行為を目撃している者などいないことを確認する。
エルガゼスは呼吸を整えて、古の女神の左目の洞に右腕を差し入れる。そして、その奥に鎮座する石の球体を取り出した。夜を磨き上げたような黒曜石の球体だ。まるでエルガゼスの行いを咎めるように鈍い輝きを反射している。
夜凝り石。天と地が分断される前、千古の時代には夜天の鉱山で数多く産出した、と実しやかに語られる伝説の宝玉だ。エルガゼスは信じても疑ってもいなかった、無関心だった代物が手の内にある。
「おめでとう。エルガゼス。また成し遂げたね」
場の緊張感を掻き消すような能天気な声が室に響く。エルガゼスの傍に星屑を伴う白い煙が渦巻き、人の頭と同じくらいの大きさの蝸牛が現れる。蝸牛は空中でくるくると回転しながら、惑星のようにエルガゼスの周囲を巡る。
「声を抑えたまえ、試す者殿。この深き地の底では誰に聞かれるか知れぬぞ」
「言ってなかったっけかな?」蝸牛のペイラースは煙の体を渦巻かせながら答える。「この霊体ペイラースの声はよほど強力な魔法使いでもない限り、盗み聞くことはできないんだ。だから安心して耳を傾けてよ」
「そうであったか、確かに知らなんだ。まだ物を持ち帰ってもおらぬのに、成功を伝えてくれたのは初めてのことではないか?」エルガゼスは持ち込んだ麻布に黒曜石の球体を包みながら囁く。
「うん。球体を女神の頭から取り出した時点で試練達成だからね。物は別に持ち帰らなくてもいいんだ」
「それを先に言いたまえ。無用な罪を重ねるところだ」エルガゼスは再び黒曜石を取り出し、元の場所へと納め直す。「ならば此度の試練はペイラース殿が証人となるのだな?」
「うん。その通り、既に王家の出の娘殿下にはお伝えしているよ。そして君に朗報だ。五度目の試練にして、残りの挑戦者が――無論君を除いてだけど――全員棄権した。出自に傷のない貴公子たちも、誉れ高い武勇を誇る戦士たちも、未来の王配たるに相応しい美男子たちも皆、僕の用意した選りすぐりの難題に屈したわけだ。殿下に課された試練を全て乗り越えたのは君だけなのさ」
エルガゼスは喜びのあまり飛び上がりそうになるのを堪え、ただしっかりと頷いた。
「ならば、ならば私こそが殿下の伴侶と――」
「実は悪い知らせもある。つまり君にとっては凶報だ」
エルガゼスは無作法と分かっていてもつい顔を顰めてしまう。五つの試練を乗り越えるのに既に三年が経過していた。その凶報の伝え方の時点で、すぐ手の届く所までやってきた至上の褒美が先延ばしになることを意味している。
しかしもはや誰に先んじられることもない。ささやかなお預けに感情を乱されはしまいとエルガゼスはそれ以上の非礼を堪える。
ペイラースの方は軽々しく新たな事態を説明する。「誉れ高き美貌の王女オルキゾナ様は更なる試練を課すことをお望みなんだ」
「理由を問うても構うまいな? 他に挑戦者がおらぬなら、もはや振るい落とす理由もない。一体何のための試練なのだ?」
「まずもって誤解があるようだね」ペイラースは残念そうに螺旋を描く。「比類なき賢姫オルキゾナ様に命じられた僕の用意した試練は、君たちを振るい落とすためのものではないんだ。確かに未来の女王の伴侶となる以上、一人に絞る必要はあるけど、それは試練を成し遂げた者の中から殿下のお好みで選べば良いこと」
「ならば何のための試練なのだ、と問うておる。隠れ潜む怪物を討伐させ、記録無き宝物に触れさせ、ただ危地を歩ませるだけの試練もあったな。何の意味があったのだ?」
エルガゼスは怒りの炎を鎮める。少なくとも欲深いが故に宝物を求めているわけではないようだ。無論甲斐性のある男であろうとはしている。とはいえ、だ。
浮遊する蝸牛ペイラースは無感情に答える。「愛の証明だよ」
「何だと? 私の殿下への愛など証明するまでもなく――」
「言葉では何とでも言える、と千軍の長たる女傑オルキゾナ様はお考えなんだ。言い寄る者は星の数よりも多い。そして皆が美辞麗句と共に声高々に力説する。貴女を世界で一番愛しているのは私だ、と。当然世界一は何人もいない。嘘をついているってわけさ」
「いや、嘘というか、だな」心当たりのあるエルガゼスは己の軽口を呪う。「しかし、だとしても誰よりも命を張って証明したのは私ではないか。残るは私だけであり、つまり私が世界で一番だ。何故足りぬのだ」
「実り豊かな地にして財の富む王国の清貧なる娘オルキゾナ様の御心までは僕にも分からないよ。さあ、話は終わりだ。次の試練は追って知らせる。そろそろ地上に戻った方が良いよ」
何者かが、それも数え切らないほどの者どもが、足音を響かせ、金属音を打ち鳴らして近づいてきている。
水に満たされた高地の最奥の緑豊かな王国源流の王都には低地にも知れ渡る王城の他に、古き御代の王の妃の為に建てられた空中庭園が聳えている。汲み上げられた水が庭園を潤し、領土のどこよりも緑豊かな立体的な人工林が形成されている。王国の栄を称えるが如く美しい鳥が鳴き、神々の影まで誘い出されるような馨しい花々が咲き乱れる楽園の如き庭園だ。
特に水遊びのできる貯水池には貴き子供たちの笑い声がさんざめいており、王国の要人たちにとっては幼い頃の郷愁の場であり、憩いの場であり、年齢を問わない社交場の一つでもある。
中でも王族とその召使いの他には立ち寄ることのできない特別な貯水池に王女オルキゾナがいた。水着を纏い、日向ぼっこをしながら、従妹と双六に興じている。
「お姉さま」とオルキゾナの父の妹の娘がはにかみながら尋ねる。「また私と共に劇場に行ってくださいませんか? 一人ではまだ心細くて」
オルキゾナは身内にしか見せない柔らかな微笑みを浮かべて答える。「ええ、もちろん。貴女が演劇を知ってくれて私も嬉しいわ」
そこへ召使いらしい少年が果実と甘い飲み物を持ってやってきた。それぞれの盃を二人の姫に渡すと少年はお辞儀をする。
「オルキゾナ様。エルガゼスが新たな試練へと出立したよ」
オルキゾナは不審げに盤面から顔を上げる。
「ペイラース。エルガゼス様はわたくしに試練を越えた顔を見せることなく、次の試練へ?」
「それもまた試練として設定したんだ」とペイラースは淡々と説く。「愛しい人の顔を見なければ試練に挑めぬ者など信じられないでしょ?」
オルキゾナは双六の盤面を見詰めながら思案する。
「それはそうね。甘えた男は願い下げだわ。して、次はどのような試練を?」
「次は誘惑の試練だね。魔女肝の閨房で誰にも触れずに一晩過ごすように、と」
「誘惑?」オルキゾナは幾らか年下の従妹の方をちらと見、しかし盤に夢中な顔を確認すると話を続ける。「魔女ズュマは三百を超える老婆ではなかった? エルガゼス様にそのような趣味があるとは思えないけれど、試練になるの?」
「ズュマには百人の娘がおり、その全員が魅了の魔術を有し、魔女ズュマもまた心を読んで愛しい者の姿を幻視させる魔術を有しているんだってさ。もちろんオルキゾナ様を愛する者はオルキゾナ様をだけ愛するべきだよね?」
オルキゾナは即答する。「もちろん、そうよ。でも大丈夫かしら。男に耐えられるのかしら」
「耐えられなかったら失格でしょ? それとも、もう十分信じられるというのならそう伝えるよ。試練も終わりにする」
従妹にせがまれ、オルキゾナは新たな手を指す。
「いいえ、もちろん、試練を越えなければ信じられません。でなければ、愛の証明にはならないわ」
魔女ズュマの集落は、何もかもが蠱惑的だった。ただの小径も、住居も、野良犬でさえも、強力な魔術を纏っているかのように目にした者の心臓を鷲掴みにする。
集落の女を初めて見た時はその美しさに叫び出しそうになった。とてもこの世のものとは思えない、天上の美を身に纏っているかのような女たちがただ普通に生活をしている。
麺麭を焼く香りは媚薬の如く、洗濯歌は無上の楽音、井戸端会議のお喋りですら愛の囁きの如くエルガゼスの魂を揺さぶった。が、全てに耐えた。全てはまやかしで真の光景ではない、とエルガゼスは己に言い聞かせる。
全てに耐え、魔女ズュマの閨に忍び込み、寝台の下に隠れた。魂は王女オルキゾナと共にあり、魔女の奸計などに揺るがされはしない、とエルガゼスは心の内で繰り返す。
日が暮れ、集落の明かりが消え、皆が寝静まった頃、魔女たちの主が寝床へとやってきた。
齢三百の老女とて相手は魔女、惑わされまいとエルガゼスは使い込まれた短剣を握る。いざとなれば魔女を手にかける覚悟だ。元より多くの罪を犯している女だ。己の試練とは無関係とはいえ、誅するも已む無し。
「男のにおいがする」鋸を擦り合わせたようなしわがれた声で魔女ズュマが呟いた。
エルガゼスは絶望する。寝台の下などすぐに見つかる。他に隠れる場所などなかったのだ。
寝台の軋む音がしたと思うと、エルガゼスを覆い隠していた寝台が跳ね上がる。そこには片手で寝台を持ち上げる魔女ズュマが佇んでいた。
エルガゼスは直ぐに飛び起きて、困惑する魔女の乾いた唇に刃の腹を当てた。
「少しでも口を開けば刺し殺す。黙っていてくれたならば何もしないと約束しよう。ただ、夜明けまでここにいたいだけなのだ。誰にも手出ししたくはない。聞き入れてくれるか?」
ズュマは目で応え、ゆっくりと寝台を床に下ろす。エルガゼスはしばらく耳を澄まし、騒ぎになっていないことを確認する。
「夜は長い。寝台に座ろう。座るだけだ。他には何もしてくれるな」
小さく頷くズュマと共に寝台に座る。ただ黙って、夜明けを待つのはこのような状況でなくとも辛い。だが、エルガゼスは諦めるつもりはない。
愛の証明は行動によって示される。その考えはエルガゼスにとっても納得できた。
放蕩な母を思い浮かべ、愛想をつかした父を思う。
欲深い女に気をつけろ、と父は言った。
甲斐性なしにはなるな、と母は言った。
エルガゼスにとってはどちらも真実であり、大事な教えだった。
ふとズュマの潤う瞳に気づき、目をそらす。しかし違和感に気づき、もう一度盗み見る。
ズュマの皴が浅くなり、肌が赤みをさしている。唇が色づき、髪が艶めいている。少しずつ少しずつ若返っている。
「何をしている。勝手なことをするな」
エルガゼスはズュマの肌に刃の腹を押し付け、その弾力に驚く。
ズュマは無実を訴えるように瞳を揺らすが、それもまたエルガゼスの心臓に杭を打ち込むような衝撃を与える。その不憫そうな振舞いだけで、まるで乙女の水浴びを盗み見てしまったような罪悪感に襲われる。
「それを止めろ。止められないのか?」
ズュマはその通りだ、と目で応える。まるでふしだらな神にかどわかされた無垢な娘のように見えてくる。美しく、憐れで、そそる。
エルガゼスは思いつく限りの汚い悪態をつくが目をそらせない。死角で呪文を唱えられても困るが、そうでなくとも視線が剥がれなくなってしまった。
エルガゼスは唸り声を唇の端から漏らし、刃を振り下ろす。そうして己の手の甲に突き刺すとエルガゼスは荒々し気な息を吐いて呟く。
「なぜ若返るのか、だけ答えてくれ」
「戦く者たちの女神に捧げた生贄の見返りだ。正午に向けて若返り、正子に向けて老いる」
魔女は声もまた若返り、ずっと艶やかに透き通るように響いた。
いつの間にか真夜中を過ぎていたらしい。
「一体何が目的だ? 何がそこまでさせる?」
「貴様には永遠に手に入らないもののためだ。お喋りはここまでだ。夜明けまで黙っていろ」
エルガゼスは流れ出る手の甲の血を見つめて、夜を明かした。
「おめでとう。エルガゼス。また成し遂げたね」
陽光と共に蝸牛の霊が現れた。いつの間にかズュマは座ったまま眠っている。
「ああ、そのようだ。私でさえも驚いた。私はこれほどまでにオルキゾナ殿下を愛しているのだな」
「でも凶報があるんだ」
王城の一室でオルキゾナは幾人もの侍女が並び立って旗を掲げるように持つ美しい衣装を見比べる。直ぐそばには従妹が小さな椅子に座り、目を輝かせている。侍女たちはオルキゾナが着る服を決めるのを待っている。
オルキゾナの叔母の娘はどこか誇らしげに、惚れ惚れした様子で溜息をつく。
「どれも麗しいですわね。どれになさいますの? お姉さまはどれがお好みですの?」
「迷うわね。でも好みではなくて、王族が劇場に着ていくに相応しい服でなくてはならないわ」
扉を叩く音がする。すると答える前に召使いの少年ペイラースが入ってくる。
従妹はその不敬を非難しようとするが、オルキゾナが窘める。
「私が呼び寄せたの。ごめんなさいね。しばらく二人にしてもらえる?」
従妹は不平を露わにしつつ、侍女たちはようやく解放された喜びを抑えつつ、部屋を出ていく。
ペイラースが口を開く前にオルキゾナが部屋の隅にある大きな錘を二つ、両手に一つずつ持つ。
「ちょっと待ってね。今日の試練がまだ残っているの。でもあまりに筋肉がついてもよろしくないのじゃないかしら?」
オルキゾナは両手の錘を上下させながら尋ねた。
「エルガゼスの好みの話なら特に問題ないよ。だけど――」
「既に家庭教師の誰よりも博識になってしまったわ。あまり賢しい女は嫌われないかしら」
「エルガゼスの懐の大きさは王国一だよ。だけど――」
「それに試練のために夜更かしが多くなってしまって。少し肌が荒れてしまったの」
「エルガゼスは結果ではなく努力をより尊ぶ男だよ。だけど――」
「それに――」
「ちょっと聞いてよ、オルキゾナ様。実は凶報があるんだ」
オルキゾナは錘の上下運動を止めずに耳を傾ける。凶報など初めてだ。多くの男たちが振るい落とされた朗報と、エルガゼスが試練を越えた朗報しか聞いてこなかった。それに応えるべくオルキゾナもまた試練を越え、愛を証し続けてきた。
「エルガゼスが棄権した。オルキゾナ様への愛を証明できる者はいなかった」
二つの錘が落ち、大きな音と共に床を凹ませる。オルキゾナは力が抜けたように椅子に座り、魂が抜けたように小さく呟く。
「そう。やはり、男など信じられないわね。口先だけで何も証明できやしない」
「また求婚者が現れたら協力するからね」
それだけ言い残してペイラースが去った部屋で、オルキゾナは一人きり、床を涙で濡らした。