テラーノベル
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兄さん、と呼び慕っていた彼は少し歳を重ねても尚、どこか少年のような眼差しを残している。
「全く。ロンドンは我の庭ヨ、連絡くらい入れるヨロシ。」
水臭いやつ、と笑う彼から漂うお香の香りも、記憶の中のものと変わらなかった。
「すみません…。実は今、例の紳士にお世話になっていまして……。」
「へぇ!縁ってのも実在するもんアルなぁ……。じゃあ、再会でお互い喜んだんじゃねぇアルか?」
乾いた笑みが漏れる。
あの時のことを思い出し、胸がちくりと痛んだ。
「残念ながら。…贈衛八処士のようにはいきませんでした。」
そうアルか、と中国さんは労うように僕の頭を撫でた。
その手のひらに懐かしさと恥ずかしさを感じ、頬が緩んだ。
「そういえば、日本。……お前、まだ詩は好きアルか?」
言葉に詰まり、目を伏せる。
ちらりと彼の方を見ると、全てを諭ったような寂しげな笑みがこちらを見ていた。
「お前は終ぞ筆を取らなかったアルが……我はね、今でもあの詩が好きヨ。」
「書けとは言わない。…ただ、我はお前に、詩に触れてほしいと思うアル。」
だから、と中国さんが呟く。
「翻訳について語る場を作った。」
「……翻訳?」
思いもよらない方向の提案に首を傾げる。
「そうネ。文学作品を他国語に移すことが意味するのは、その魂に触れる人を増やすということ。ちょうどお前の教授も参加するらしいアルよ。」
「フランス先生が?」
意外な人物の登場に驚いた。
確かに、言われてみれば僕や彼の研究範囲ドンピシャの話題だ。
「詩は花ヨ。誰にでも香るが、誰かにだけ染みつく。…だから場所は選んで咲け。香りを撒くなら、風通しのいいところで。花びらを落とすのなら、お前の守られるところで。…我はもう、お前に傷ついてほしくないアル。」
叱るでも諭すでもない、ただ穏やかに僕の前途を願う、優しい兄の目。
「……中国さん。僕、出てみたい、です。」
「本当アルか!?」
きらり、と午後の陽光の中で彼の瞳がきらりと光る。
中国さんは紙の束を取り出すと、勢いよく言った。
「じゃあ、我は待ってるヨ!」
***
陶器の音が重なるキッチンに、ふたりで並ぶ。
お茶の時間だけは完璧な所作で調理器具を扱う彼に見惚れながら、僕は大学での出来事を話していた。
「フランス……よりにもよってあの人ですか。」
フランスさんの名前が出た途端、イギリスさんの顔が歪んだ。
苦虫をゆうに100匹は噛み潰していそうな顔だ。
「お知り合いですか?」
「えぇ、まぁ……学生時代、当時は文学部の男子生徒が珍しかったので。彼ともうひとり…中国という漢詩好きの留学生とよくいたんです。」
「えっ、中国さん!?」
今度は彼がお知り合いですか、と言う番だった。
「へぇ、彼の言う『弟分』は日本さんのことだったんですね。」
「やっぱりあの人、そんな風に言ってるんですね…僕のこと。」
「今まであなたに妙な懐かしさを覚えていたのですが……どことなく、彼の面影があったんでしょうね。」
ようやく謎が解けました、と軽やかにイギリスさんが言う。
ヒビが入るのではと心配になる程妙に痛々しく響く、カップどうしが擦れる音。
そんな彼を見て、ゆるりと微笑んだ。
ちくりと疼く、思い出にフタをして。
***
重厚な扉を押し除けた先には、茶葉の匂いが立ち込めていた。
『茶葉』と言っても紅茶のそれとは少し違う、炭の匂いの混じった、どこか懐かしい香り。
「あっ、日本くん。思っていたよりも早い再会だね〜。」
フランスさんは背もたれ越しにこちらを振り返ると、優雅に手を振った。
「げっ、イギリス。」
「河鹿のような声を出すのはおやめなさい。彼の耳に失礼ですよ。」
ねぇ、と求められた賛同を誤魔化すために会釈をし、勧めてくれた席に座る。
オリエンタルな装飾の施された円卓につくと、中国茶の入ったカップが湯気を立てていた。
中国さんがオフィスとして借りている部屋らしいが、肝心の家主の姿が見当たらない。
「あれ、中国さんは?」
「何か忘れ物って。お茶淹れたら出てっちゃった。」
普段よりラフな格好で眠そうに目をこするフランスさんの隣に、略装ながらもトレードマークのスーツ一式に身を固めたイギリスさんが腰を下ろす。
映画のワンシーンのような光景に、しょぼくれた目が痛む。
自分の存在の必要性を宇宙に問いかけ出した頃、ようやく扉が開いた。
「感心感心。早いアルな、若いの共。」
そんな声と共に、少し息を切らせた中国さんが足早に近づいて来た。
手にはコピー用紙の束のようなものを握っている。
「じゃあ早速で悪いアルが……、今日の議題はこの詩ヨ。」
ひらりと人数分置かれた紙に、雲の切れ間から光が差す。
その中に見つけた『まこと』の文字に、心臓がドクンと強く脈打った。
黙っていろ、と細い目が光る。
「……。」
「この詩の翻訳をするもよし、翻訳の定義づけをするもよし。好きに語るがヨロシ。」
それだけ言って中国さんは腕を組んだ。自分は見ているから、ということらしい。
つまり、僕の不満げな視線にも答えないということか。
「……漢詩のような奥行きに、日本語特有の婉曲な表現。…しかし、構成には欧州の詩作哲学が伺える……非常に興味深い詩ですね。」
イギリスさんが水面に滴を落とすように、静かに口火を切った。
穏やかな声音はいつもと変わらないのに、探るような何かを感じてしまう。
「ははっ、相変わらずだね。そうやって言葉や論理ばかりを拾って詩を読んだって悦に入る気?」
足元用にランタンでも貸そうか、とフランスさんは優雅に茶器を持ち上げた。
「おや。心外ですね。辿るべき道を知らない、霧に不慣れな田舎者にこそ必要なものでしょう?」
イギリスさんが笑みを深める。
ふたりの間を飛び交う可視光線がバチバチと音を立てる。
どうやら僕は、戦場の傍観者になってしまったようだ。
(続く)
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