テラーノベル
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扉のところで佇んでいる結を見て、翠が言った。
「何してるの。いつもみたいに座りなさいよ。今タオル取ってくるから」
「そんなのいい」
「あんたホテルの代表でしょう。風邪ひいて休めるほど暇なの? 仕事をナメんじゃないわよ」
濡れた前髪に触れて結は俯いた。
翠が奥の部屋へ行ってしまうと結は店内を見回した。誰もいない。奥のテーブルに男性客はいたのだろう。コーヒーカップと折り畳まれた新聞が残っていた。カウンターからキッチンの中を覗くと、コンロに赤いやかんがかけられていて湯気が上がっている。
「使って」
渡されたタオルの柔軟剤のいい香りに、結はやっとほっと一息つけた気がした。
店内を見ながら結が聞いた。
「恭平さんは? もう帰ったの?」
翠がスプーンを握る右手を止めた。
「それより、あんたは…」
「今は恭平さんのことを聞いているの」
翠の言葉を跳ねのけるように、やや強い口調になってしまった。だが、意外にも翠は黙って視線を落した。
「何かあったの?」
今度はできるだけ優しく聞いた。翠が天井を見上げたとき、目尻に光るものが見えた気がした。
「今頃はドイツね。あんた知っている? ドイツにクリスマスマーケットっていうすごく綺麗な街があるの」
結は小さく頷いた。
「それならテレビや雑誌で見たことがあるわ。とても素敵な街よね」
「それを楽しみにして出掛けていったのよ」
「でも随分急ね。それに随分遠いところに旅行なのね」
「癌だって…」
翠が視線を落すたびに結は怖くなる。
「癌なんだって…、恭平さん」
繰り返す翠の声が震えている。
「ここでいきなりあたしの目の前で倒れたのよ」
そのときのことを思い出すと、今も恐ろしくなるのだろう。翠の息遣いがやや速くなる。カウンターの上に載っていた翠の手に、結は手を重ねて軽く握り締めた。
「すぐに救急車を呼んで、病院にも付き添った。恭平さんには既に告知されていて、でも今すぐどうこうっていうわけじゃないって」
結は黙って翠を見つめていた。
「恭平さんはね、あたしなんか足元にも及ばないほど優秀な営業マンで、仕事人間で、奥さんとの新婚旅行も近くの温泉ですませてしまったっていつか笑って話してくれた」
ひと息吐くと、翠は顔をあげて続けた。
「だからリタイアしたら、奥さんと旅行に行くんだってずっと言っていた。ドイツは奥さんの憧れの街なのよ。だから行けるときに思いきって行こうっていうことになって、先週出掛けていったわ。大丈夫よ」
恭平のことを言っているようで、翠は自身に、「大丈夫だと」言い聞かせているように聞こえた。
「恭平さんが戻って来るまで、お店を守らないといけないから」
徐々にいつもの口調に戻っていく翠に、結も明るく言い返えした。
「そうよ。ここがなくなると私も困るのよね」
翠が笑った。
それが結には嬉しかった。
「飲みなさいよ。温まるから」
翠が淹れてくれたカフェオレをひと口飲んで、結は呟いた。
「甘くて美味しい」
「ビスケットも出してあげよっか」
その言い方がなんか子供っぽくて、結はくすっと笑いながら軽く首を振った。
カフェオレの温かさは、結の身体に丁度よく染み渡っていく。翠はしばらく何も話しかけずにいてくれた。
店内に流れる音楽もなく、エアコンの微かな音だけが聞こえた。そんな静寂の中で、今日の午後のことが終わらないメリーゴーランドみたいに結の頭の中で回り続けている。
「何を知ったの? 聞くわよ」
翠の落ち着いた声に顔をあげると、カウンターを挟んだ向かいに椅子を引いてきて翠は座っていた。
出会ったときから化粧をして、唇には赤い口紅を引いて正直、年齢不詳だが貴一の書斎で見つけたあの記事が書かれた頃は、翠も子供だったはずだ。
何を知った?
翠は何を知っているのだろうか。
「今日凛太郎さんから電話があったの」
「凛太郎から電話?」
翠の眉間に皺が寄る。
「母を返せと言われたわ。それで母のことを知りたくて実家に行ってきたの」
話しながら結は膝の上で強く手を握り締めた。それはスイッチだった。
泣かない為のスイッチ。
「父は口数が少なくて厳しい人で、次第に会話らしい会話のない親子になっていった。この仕事も半ば無理矢理、私の人生はほとんど父に決められて生きてきただけ。母の関係は悪くはないけど、なんでも話ができる母娘でもない。母のことがわかれば、必ず凛太郎さんにも繋がると思った」
それだけではなかった。
結たち家族が本物の家族だという証拠を見つけたかった。
だが父の書斎で見つけた週刊誌の記事は、結が全く想像もしていなかった母花江の姿を記していた。
「母は春日花江で、凛太郎さんのお母さんで、私の母じゃなかった…」
母じゃなかった…。
その言葉だけが妙に響いて聞こえてくるから、息もできなくなるくらい胸が苦しくなる。顔をあげた結は瞳を大きく見開いて翠を見つめた。
「私は誰? 何者なの。教えて、翠」
心の中で叫ぶ。
泣かない為のスイッチは今も握り締めているけれど、翠の前ではなんの役にも立たないものになりそうだった。けれど、ここで泣いたら負けになりそうで必死に堪えていた。
父に歩かされているだけの人生かもしれないけれど、それなりに努力もしてきた。
「お父さん」と呼ぶより、「会長」と呼ぶことの方が多くても。どんなときでも「結ちゃん」とよそよそしく呼ぶ母でも。
これまで育ててくれたのはあの両親で、彼らがどんな事情を抱えていたとしても、何を犯したとしても、殺人だけは絶対に関わっていない。世界中で彼らのことを信じられるのは、自分だけだと思いたかった。
「あんたが恐れているようなことはないと思うわよ」
翠が言った。
「どうしてそう言えるの?」
「考えてもみなさいよ。コズカグランドホテルって結構有名なホテルなのよ。その記事が書かれた当時お父さんは代表だったんでしょう。そんな人が罪を犯したらすぐに記事になって叩かれて、今頃ホテルなんかないわよ。何もやましいことがないから、代表を続けて、今も会長の座にいるんじゃないの」
「ねえ教えて。あなたと凛太郎さんとはどこで出会ったの? 本当に友達なの?」
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コメント
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第16話読み終えたよ〜😭💕 結の「泣かない為のスイッチ」って表現がめっちゃ刺さった…。必死に強がってるところとか、翠の前でだけはスイッチ効かなくなりそうになるのが切なすぎる🥺 恭平さんの話を聞く翠の震える声とか、でもいつもの口調戻ってからのビスケットのやりとりとか、ああいう日常の温かさが染みる…! 結の「私は誰?」はマジで心臓掴まれた。続き早く知りたいよ〜!!!🔥✨