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ティアの手のひらから溢れる光で、バザロフは古傷の痛みが消えていく。


一方、バザロフの古傷を癒しているティアは、複雑な気持ちでいた。


奇しくも、肩から胸にかけて痛々しく残っているバザロフの古傷は、3年前、名も知らぬ騎士が負った場所と同じなのだ。


今でも騎士の代わりに引き受けた傷跡は、ティアの左胸にうっすらと残っている。

それが、子猫に甘噛みをされるように疼いて、あの騎士のことを考えてしまう。


傷の後遺症に苦しんではいないだろうか。元気に過ごしているのだろうか。


想いは色あせるどころか、日に日に募るばかりだけれど、会いたいとは思わない。会えるとも思っていない。


なぜなら、ティアの行動範囲は娼館の付近に限られているからだ。


この3年、一度だって、お使いの途中であの騎士に出会うことはなかった。それらしき人物を見かけることすらなかった。


ならこれからだって、偶然会うことはないだろう。


それに、あの騎士と出会う可能性があるならば、ここ。娼館でしかない。娼婦を物色する騎士の姿を目にしてしまったら、立ち直れない。


ティアは娼館育ちで、育った場所がどういうところなのか、ちゃんとわかっている。


かつて偉人が残した『職業に貴賤はない』という言葉に拍手を送りたくなるほど、この場所は誰かに必要とされていることを理解している。


何よりメゾン・プレザンで働くことは、ティアの誇りでもある。


とはいえ達観しているティアにだって、乙女心というものが残っている。綺麗な思い出は、綺麗なままでいたいのだ


そんなティアが願うことは一つだけ。


あの騎士が、3年前、変な少女に命を救われたということだけを覚えていて欲しい。それだけだ。


バザロフは宮廷騎士団の総括だから、勇気を出してあの騎士のことを尋ねれば、何かしらの情報を与えてくれるだろう。

でも、都合の良い情報だけを与えてくれるとは限らないから、訊くことはしない。わざわざ傷付くようなことを自分からするのは、愚かなことだ。


それにティアは騎士と恋仲になりたいとは思っていない。まして、結婚したいとも。


3年前のあの出来事はティアにとっては、砂漠の中で咲く一輪の花のようなもの。

記憶を刻むことができただけでも、めっけもん。時折思い出すだけで、満足できる。


そんなふうに結論付けるティアは、良く言えば諦めが良く、ある意味、悟りきった少女でもあった。


「何度聞いても、まるで子守唄のようだな」


ぼんやりと追想していたティアだったけれど、バザロフの言葉ではっと我に返る。


「あながち間違いじゃないですよ。私、これを聞きながら眠ったことありますし」


金色の瞳のまま、ティアはバザロフに向かってほほ笑んだ。


ティアはこの呪文を母親から引き継いだ。

そしてきっと母もその母から受け継いだ。


移し身の術は、書物には残さない。全て口上で伝えられる。親から子へ。


この術を使えるのは血筋で、血脈が違えば、どれだけ努力を重ねても、移し身の術は使えない。


きっと自分の祖先は、まともな人間ではなかったのだろう。妖精との間にできた子か、それとも魔女の末裔か。多分そんなところ。


だいたい、術を使うたびに瞳の色が変わるなど、不気味にも程がある。


こんなけったいなものを目にして、驚かないのは、酸いも甘いも噛み分けたメゾン・プレザンの主であるマダムローズか、百戦錬磨のバザロフくらいだろう。

「バザロフさま、終わりました」

「ああ。嘘のように痛みが消えた。毎度、助かる。ありがとうティア」

「いいえ。とんでもありません」


短い会話をしながら、バザロフはティアの両脇に手を入れて持ち上げると、そっと地面に降ろした。


「じゃあ、そろそろ行こうかね」


立ち上がったバザロフは、年齢を感じさせないしっかりした足取りで、ポールハンガーに足を向けた。


「……もう………ですか?」


足元に転がっているクッションを拾い上げながら、ティアは寂しそうに呟いた。

「ああ。少々王城で厄介ごとがあってな」

「……まぁ」


肩をすくめたバザロフに、翡翠色の瞳に戻ったティアは、パチパチと何度も瞬きを繰り返した。


バザロフは手早く上着とマントを羽織り、剣を取ると、再びティアの元へと足を向ける。


「また近いうちに来る。それまで、達者で暮らせ」

「………はい」


武骨な手でゴールドピンクの髪を撫でるバザロフは、ティアが生まれる前からこの娼館に通っている。

だからティアの生い立ちも、もちろん知っている。

そんなバザロフは、未だに独身だ。そのせいか、ティアのことを実の娘のように可愛がってくれる。


そして、騎士の命である剣を持たせるくらいには、信頼している。

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