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リビングの空気は
どこか取り残されたような
静けさに包まれていた。
壁にかけられた振り子時計が
夜九時を穏やかに知らせる。
艶のある木の床に
ほんのりと芳ばしいコーヒーの香りが残る。
カップに差し込む照明は暖かく
窓の外には街灯が淡く瞬いていた。
その穏やかな空気を破って
廊下からバタバタと
慌てるような足音が響いた。
「お、おい、どうしたよ?」
ソファに腰をかけていたソーレンが
眉をひそめて声をかける。
レイチェルだった。
顔を真っ赤にして
頬を蒸気のように火照らせ
肩で大きく息をしていた。
「⋯⋯ってた」
「は?」
隣のテーブルで
紅茶を揺らしていたアラインも眉を上げる。
「だからっ!始まっちゃってたのよ!!
もう!でも、綺麗すぎたから⋯⋯
今のうちに描いてくるわ!!」
そう叫んで、レイチェルはくるりと踵を返し
再びバタバタと二階へ駆け登っていった。
スリッパの音が廊下に小さく響き
やがてドアの閉まる音が重なる。
「なに?
お風呂で始めちゃってんの、あの二人?」
アラインが優雅に紅茶を一口飲みながら
涼しい顔で言った。
「みてぇだな?」
ソーレンは腕を組んだまま
どこか呆れたように吐息をこぼす。
「で?レイチェルが言ってた
〝描く〟ってどういうこと?」
「⋯⋯あ?ああ、アイツ
趣味で漫画描いてるって言ってたから
それじゃねぇか?
見せてもらったことはねぇけど。
あの二人を見た後に描くってことは⋯⋯
恋愛ものなんじゃね?」
「なるほどね?
メニューの絵とかも可愛らしいし
業者に依頼してるのかと思ってたけど⋯⋯
彼女が描いてた訳か。意外な特技だね?
今度、レイチェルにノーヴル・ウィルの
ポップもお願いしようかな」
アラインがくすりと笑いながら
膝に乗せた膝掛けを整える。
その隣、ソーレンはふと天井を見上げ
耳を澄ませた。
一方その頃。二階──
小さなデスクランプの下
レイチェルはスケッチブックを広げ
鉛筆を激しく走らせていた。
頬は真っ赤、鼻先まで染まり
目は潤んでいる。
「ひぃっ、だめっ⋯⋯これは、尊い⋯⋯!
いや、いけない、これでは全年齢じゃ⋯⋯
でも、この構図は逃せない⋯⋯っっっ!!」
手元のページには
湯気の中に揺れる着物の裾と
濡れた前髪から滴る水のしずく。
抱き寄せ合う二人のシルエットが
まるで聖域のように描かれていた。
「濡れた着物って⋯⋯ずるくないっ!?」
小さく悲鳴をあげると
笑いと絶叫が交互に漏れ出し
二階の天井を伝って階下に届いた。
⸻
──と、その時。
階段をゆっくりと降りてくる
控えめな足音。
現れたのは、真顔の青龍。
小さな両腕には、時也の寝間着一式と
なぜか未使用のゴミ袋が数枚──
清掃用らしい。
時也の念話での指示を受けてか
彼は静かに浴室へと向かって歩いていく。
「青龍が行ったってことは⋯⋯
あの二人、終わったのかな?」
アラインが横目でちらりとその姿を見送る。
「⋯⋯俺、まだ入ってねぇんだけどな。
今夜はやめとくわ。
張り替えられてても、抵抗あるぜ⋯⋯」
ソーレンの言葉に
アラインは喉の奥でくすくすと笑った。
「ふふ⋯⋯
意外と潔癖なんだねぇ?
まあ、これだけ時間掛けた
愛の後じゃ⋯⋯ねぇ?」
その手のカップを傾けると
カランとスプーンが静かに鳴った。
──こうして、喫茶桜の夜は更けていく。
静けさと賑やかさが絶妙に混ざり合い
さざめく風のように
日常と非日常が優しく交錯する。
騒がしく、けれどどこまでも温かく。
今日もまた、この家には
〝帰る場所〟の灯りが
絶えることなく灯っていた。