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しばらくして──
浴室の扉が静かに開かれ
温かな湯気と共に、ふたりの影が現れた。
火照った頬に濡れた前髪を貼りつけたまま
時也がアリアを優しく抱きかかえていた。
アリアは何事もなかったような無表情のまま
彼の胸元に身を預けている。
その後ろには
全身をふかふかの白タオルに包まれた
ティアナを片手に抱いた青龍の姿があった。
反対の手では
パンパンに膨らんだ大きなゴミ袋を
ズズ⋯⋯と引き摺っている。
袋の中身は見えない。
だが
リビングの空気は明らかに変化していた。
ふわり──
風のない室内に、濃密で深く
甘やかな薔薇の香りが広がった。
それは花畑のような軽やかさではなく
夜の館で焚かれる香のように
どこか艶やかで、情熱の名残を孕んでいた。
「⋯⋯お前らなぁ」
ソーレンが
テーブル越しに半眼で睨みながら
呆れた声を漏らしたその瞬間だった。
「アリア様っっ!!」
リビングの空気を裂くように
誰かの声が響いた。
バタバタと駆け寄る足音。
漆黒の長髪がソーレンの視界を横切り
時也たちへと勢いよく飛び込んでくる。
それは──ライエルだった。
どうやら、アリア関連ともなると
流石のアラインも
ライエルには勝てなかったようだ。
「お身体は、もう平気でしょうか!?」
真っ直ぐにアリアを見つめ
彼は時也の腕の中の彼女へと
縋るように手を伸ばす。
アリアは反応を見せなかった。
だが──時也は見ていた。
自らが抱きかかえるアリアの肩に
ライエルの手が触れた瞬間を。
次の刹那。
時也の鳶色の瞳が、ふっと色を失った。
視線は、音もなく冷たく、鋭く
ただ〝そこ〟だけを射抜いた。
「⋯⋯ぴ⋯⋯っ!
し、失礼いたしました、時也様⋯⋯」
ライエルは殺気の気配に肩を跳ねさせると
すぐに数歩後ろへと退いた。
両手を胸元に引き寄せ
どこか申し訳なさそうに視線を逸らす。
(うわ⋯⋯
ライエルにまで、容赦ねぇな⋯⋯アイツ)
ソーレンは思わず眉をしかめ
椅子の背にもたれながら
大きく溜息を吐いた。
だが、次の瞬間には──
時也の顔は
何事もなかったかのように柔らかく
穏やかな笑みに戻っていた。
「ちょうど良かった⋯⋯
ライエルさん、お話ししたかったんですよ」
彼はアリアをそっとソファに下ろし
ストールを肩にかける。
それから再び姿勢を正し
ライエルの方へと向き直った。
ライエルの表情がわずかに強張る。
「もしかして⋯⋯」
「えぇ⋯⋯〝信仰の魔女〟についてです」
その言葉に
場の空気がわずかに張り詰めた。
タイミングを見計らったように
青龍が音もなく近づいてきて
テーブルに二つの冷たい茶を置いた。
時也とアリアの前にそれぞれ並べ
軽く一礼すると
ティアナをソファ脇に連れて行き
備え付けのドライヤーを手に取る。
部屋に
ドライヤーの控えめな送風音が響き始める。
「ご存知だったんですね⋯⋯
はい。その魔女の転生者が
異能に目醒めたようです」
ライエルは深く頷いた。
その声音には
穏やかだが確かな確信が滲んでいた。
「やはり⋯⋯
それで、不死鳥も焦っているのでしょう。
ライエルさんは、その転生者の方に
目星はついておられますか?」
時也の問いに、ライエルは僅かに目を伏せ
首を横に振った。
「⋯⋯まだ。
兆候はあれど、確証には至っておりません」
「なんだよ、信仰の魔女って?」
沈黙を破ったのは、ソーレンだった。
腕を組み、椅子にもたれたまま
不機嫌そうに顔をしかめている。
「信仰する対象に奇跡と
異能に加護を与える⋯⋯
より異能を強化する異能でございます」
ライエルが、静かに説明を重ねる。
「ふーん。
ゲームでいうバフみてぇなもんか」
ソーレンが軽く顎を上げて呟くと──
「⋯⋯ばふ?」
「⋯⋯ばふ?」
時也とライエルが揃って
きょとんと首を傾げた。
「あー⋯⋯
原始人みてぇなお前らに言った
俺が悪かった。
構わず続けてくれ」
ソーレンは投げやりに言い捨て
紅茶のカップを手に取り直す。
そして、ドライヤーの音と
香り立つ薔薇の余韻の中──
〝信仰の魔女〟という名の新たな渦が
静かに喫茶桜を包み込み始めていた。
「では⋯⋯
兆候とは、どのようなものですか?」
時也の問いかけは
穏やかな声音であったが
その瞳には、何かを見逃すまいとする
深い静けさが宿っていた。
リビングの空気は次第に熱を帯び
先ほどまで漂っていた薔薇の残り香も
どこか神聖な気配に変わっていく。
ライエルは椅子に深く腰を下ろし
自らの両の手を膝の上に置いた。
その手を、ゆっくりと見つめる。
まるで初めてこの手を得たように
慎重に、指の一本一本を確かめるように。
「私の⋯⋯
異能の一部が戻っていることです」
その言葉に、時也の眉がわずかに寄った。
「ライエルさんの?
記憶の異能の核は
アラインさんにほとんどが
継承されてしまっていたはずでは?」
ソーレンもそのやり取りに耳を傾けたまま
椅子の背にもたれ、腕を組んだ。
「ええ、仰る通り
アラインに殆どのものが継承されています。
しかし、それは〝不完全〟でした。
不死鳥の干渉があったためです⋯⋯」
ライエルは薄く目を閉じた。
「本来、記憶の一族は──
記憶を持たずに転生してくる魔女たちに
不死鳥の〝生まれ直しの儀式〟を
思い出させる役割がございます。
それは単なる記録ではなく
魂に刻まれた記憶へと至る〝道筋〟なのです
異能の本来の使い方すら⋯⋯
思い出させる、鍵であり、橋でもある」
「⋯⋯では、兆候として。
ライエルさんが、信仰の加護を受け
道筋となるべく部分の異能が戻った⋯⋯
と、そういうことですか?」
「はい。そして──
その加護は今⋯⋯
時也様もまさに、受け取っておられます」
ぴたりと、時也の動きが止まった。
少し驚いたように瞳を見開き
それから、ふと手元へ視線を落とす。
「僕も⋯⋯ですか?そういえば──⋯⋯」
彼は静かに右手を持ち上げる。
その掌を開き
まるで何かを感じ取るように
微かに指を動かした。
「植物操作の異能の精度が
明らかに上がっていました。
思い描いた通りに
葉脈の形までも制御できました⋯⋯
以前の僕ではあり得なかったことです」
時也の声が、わずかに震えていた。
それは驚きと
確信が入り混じった微細な震えだった。
沈黙が落ちる。
ティアナの乾かす音だけが
リビングに控えめに流れていた。
白い毛がふわふわと揺れ
青龍が丁寧にブラシをかけている。
「私たちが、同時に誰かと接触したのは⋯⋯」
ライエルの声が、静かに空気を裂く。
「そうですね。今日のランチ⋯⋯です」
時也が頷いた。
冷茶に手をかけることもなく
じっと思考に沈んでいる。
「では──
今日、喫茶桜のランチに連れてきた子供達か
職員の中に⋯⋯」
ライエルの瞳が鋭くなる。
記憶の魔女としての直感が
なにかを予感していた。
「信仰の魔女の転生者がいる⋯⋯
ということになりますね」
時也は静かに結論を告げた。
外では風が木々を撫で
遠くの通りから人の話し声が微かに届く。
だが、この小さな家の中だけは
まるで時間が止まったように
深い沈黙に包まれていた。
─信仰の魔女─
その名の存在が
いまや時也とライエルの間で
確かな〝実在〟となって形を持ち始めていた
やがて、ソーレンが腕を組んだまま
ぼそりと呟いた。
「⋯⋯面倒な展開になりそうだな」
その言葉は、誰の同意も求めていなかった。
ただ、現実の一端として
確かに空間に落ちていく──⋯