これまでの人生、私にとって「好き」とは一方通行のモノで、決して口に出してはいけない秘すべきモノだった。
不純な気持ちで、恥ずべき、捨てるべきモノでもあった。
だけど、週末に瀬戸さんの家に行った時、私は人生で初めて「好き」を言葉にして相手に伝えた。
それはとても勇気がいることで、怖いことだった。
ただ、それ以上に今言わなければという衝動と、瀬戸さんに伝えたいという想いが優った。
恐る恐る伝えた「好き」。
それは一方通行にはならず、初めて「好き」が同じように返ってきた。
その瞬間、今まで27年間私が抱いていた「好き」の形が一変する。
「好き」は相手にも返してもらえるモノで、口に出して伝えて良いモノで、恥じるべきモノでもなく、捨てるべきモノでもない。
通じ合うととっても幸せで、心が満たされるモノになった。
それに、キスの意味も実感した。
……世の中の恋人たちがなんで唇のふれあいをするのかよく分からなかったけど、アレは「好きを伝え合う」行為だったんだね。
その日は、外へ出掛けることなく、瀬戸さんの家で2人で過ごした。
瀬戸さんは「どっか行く?」と行ってくれたけど、前日夜遅くまで大変だった瀬戸さんに無理して欲しくない。
家で一緒に映画を見たり、ごはん食べたり、のんびりした時間。
瀬戸さんは前夜のトラブルの事後経過の確認のため、たまにパソコンで仕事もしたりしていた。
申し訳なさそうに「ごめんね」と謝られたけど、私は全然気にならなかった。
ただ一緒にいられる、それだけで充分だから。
好きな人が自分を見て、自分と一緒にいてくれるなんて、なんて贅沢なんだろうと思うのだ。
「せっかくの週末なのに、結局一日中家でホントにごめんね?しかも、時々仕事したりして、詩織ちゃんを一人にしたし。つまんなかったでしょ?」
夜になり、デリバリーした夜ゴハンを一緒に食べながら瀬戸さんが眉を下げて私を見る。
そんな顔しないで欲しい。
そばにいられるだけで幸せなのに、瀬戸さんはとても気にしているようだった。
「もともと一人で過ごすのも好きなので、私は全然大丈夫ですよ。瀬戸さんこそ、私が家にいて気が散らなかったですか?」
「まさか!いてくれるだけで嬉しいよ。だから、いつでも気兼ねなく来て?」
「じゃあたまにお邪魔しますね」
「たまにと言わず、毎日でもいいんだけど。あ、帰りは車で家まで送ってくよ」
「都内から遠いですけど、いいんですか?」
「もちろん。夜に一人で帰す方が心配だし」
子供じゃないんだから、これくらいの時間なら一人でも平気だった。
心配しすぎな気がするけど、私のことを気にかけてくれるその気持ちは嬉しかったのでお言葉に甘えることにした。
食後、コーヒーを飲んで少しゆっくりしたあと、瀬戸さんの車に乗り込む。
瀬戸さんの車は国産メーカーのハイブリッド専用車だ。
これまで何度か乗せてもらっている。
今までは特に何も思わなかったけど、六本木のこの高層マンションに住んでいることを知った後だと、なんとなく意外に感じる。
というのも駐車場に並ぶ車は高級ブランド車が多いからだ。
車が発進し、隣で運転する瀬戸さんの横顔に問いかけてみた。
「瀬戸さんは、車は外国産の高級車とかには乗らないんですか?」
「なに?外車に乗って欲しいの?」
「あ、いえ、そういう意味じゃなくって。六本木のあんな高級マンションに住んでる方って車も高級車に乗る方が多いんだろうなと思っただけです」
「ああ、確かに駐車場にも高級車多いもんね。俺は車に特にこだわりないかな。燃費良くて固定費減る方が経済的だし」
「現実的な理由なんですね」
「うん、そう。家も同じ。あそこに住んでるのは会社から近くて、マンション内に色々揃ってるから効率良いって理由が大きいかな」
「ふふっ、なんか瀬戸さんらしいですね」
聞いてみれば、ものすごく効率重視な視点だった。
仕事の時の瀬戸さんは冷静沈着、即断即決即行動な人だけど、その片鱗が今の発言からも透けて見える。
IT企業の社長なんて肩書きだけを耳にすると、派手そうな印象を受けるけど、瀬戸さんはとても堅実なんだなと改めて感じた。
「詩織ちゃんは会社から実家まで1時間近くかかってそこそこ遠いけど通勤大変じゃない?」
「そうですね。だから、というわけではないんですけど、近々実家を出ようと思ってます」
「えっ、それ初耳なんだけど!」
ちょうど赤信号で止まったタイミングだった瀬戸さんは思わずというように、こちらに振り向く。
驚いた顔をした瀬戸さんと目が合った。
瀬戸さんが初耳だというのも無理はない。
初めて言ったから。
というか、実を言うとさっき瀬戸さんの家にいる時に思い立ったばかりだった。
私がこれまで実家に住んでいた一番の理由。
それは兄だった。
社会人になって実家を出てしまい、会う機会が減ってしまった兄との繋がりを保っていたかったからだ。
だけど、もうその必要はない。
兄への想いを乗り越え私は前に進んだ。
今は瀬戸さんだけが好きなのだ。
だから今までの拗らせた恋へのケジメとして兄と距離を取るために実家を出ようと決意した。
瀬戸さんが仕事をしていて一人の間、私はそんなことを考えたりしていたのだった。
「初耳なのは当たり前です。さっき決めましたから」
「さっき?」
「はい」
「どこらへんに住むとか、なにかもう決めてることはあるの?」
「いえ、まだ全然です。これから考えます」
「そう……」
相槌を打ちつつも何か考え込むような顔をした瀬戸さんだったが、信号が青に変わり、再び車を発進し出す。
だが、しばらくしてなぜか車は減速して路肩に止まった。
私の家はまだ先だし、止まったところは特に何かあるような場所でもない。
不思議に思って運転席に目を向けた。
「……どうかしましたか?」
「詩織ちゃんに一つ提案があるんだけど」
こちらを見た瀬戸さんは、私の質問に答えることもなく唐突にそう切り出した。
脈絡がなくて何の提案か想像がつかない。
私は首を傾げながら先を促した。
「提案、ですか?」
「実家を出て一人暮らしするつもりなら、俺の家で一緒に住まない?」
「えっ?」
まさか一緒に住む提案をされるとは想定もしてなくて目を丸くする。
……恋人同士が一緒に住む、つまりそれはいわゆる同棲ってヤツ??
「詩織ちゃんも知ってのとおり、広さは十分にあるし、会社から近いし通勤も楽だよ?家賃もいらないから経済的でしょ?」
「え、でも、さすがに一緒に住むなんて早くないですか……?」
正式に付き合うことになったのは今日だ。
お試し交際を入れても1ヶ月くらい。
さらに言えば、社長と秘書として再会して一緒に仕事するようになってから数えても、まだ2ヶ月少々である。
……一般的な恋人がどれくらいで同棲するのかは知らないけど、でもそれにしても早いよね?
「なんで?時間なんて関係なくない?こういうのはタイミングだと思うんだよね。それとも詩織ちゃんは嫌?」
「あ、いえ、嫌というわけでは……」
「それなら、ね? あ、ご両親にはちゃんと挨拶するよ。詩織ちゃんの実家に向かってるからちょうどいいね。今日ってご両親、家にいる?」
「あ、はい、たぶん」
「じゃあ着いたら挨拶させてね」
いつのまにかもう一緒に住むことが決定している流れになった。
しかも親に挨拶までしてくれるという。
瀬戸さんの即断即決即行動の真骨頂を見せられた気分だ。
実家に着いた時、本当に言葉通り瀬戸さんは私と一緒に来て、親に挨拶してくれた。
突然の来訪に親は驚いてはいたけど、とても嬉しそうにしていたのが印象的だった。
交友関係がほぼなく、いつも家にこもって一人で過ごしている私を心配していたらしい。
慕っている兄が結婚することになった今、ますます私が内向的になるのではないかと気が気でなかったという。
親にそんな心配をされているとは思わなかった。
予想以上に私は周囲に心配をかけていたようだ。
一緒に住むということに関しても全く反対されず、むしろ「どうぞどうぞ」と追い出される勢いだった。
さっそく翌日の日曜日に荷物を詰めて引越しすることになった。
といっても私の荷物なんてほとんどない。
すぐに使わないものは実家にそのまま置いておくこともできる。
結局大きめのスーツケースと段ボール2個にまとまった。
夕方には瀬戸さんがまた車で迎えに来てくれて、荷物を積んで実家を出る。
そして日曜日の夜である今、瀬戸さんの家で私は荷解きをしている。
土曜日の昼間に実家を出ようと決意して、わずか約1日。
目が回るくらいの怒涛の展開だ。
「荷解きどう?何かボーッとしてるけど疲れた?」
「……いえ、自分のことながら、ちょっとビックリするくらいの急な展開に驚いてました」
「俺は今日から毎日詩織ちゃんと一緒にいられると思うと嬉しいな」
背後から腕が伸びてきて、ふわりと抱きしめられた。
背中に瀬戸さんの温かい体温を感じてなんだかホッとする。
「あの、改めて今日からよろしくお願いします」
「うん、こちらこそ」
「実家以外のところに住むのも、家族以外と住むのも初めてなので、何か気になることがあれば遠慮なく言ってくださいね?」
「それなら一つ言っていい?」
そう言われてビクリと体が強張る。
さっそく何か不手際があったのだろうかと心配になった。
「俺のこと、名前で呼んでくれない?会社では瀬戸社長、プライベートでは瀬戸さんって呼んでるでしょ?なんか距離を感じて寂しいんだよね」
……なんだ呼び方か。気付かないうちに何かしちゃったのかと思ったから良かったぁ。
小さく安堵の息を吐きながら、私は彼の名前を口にする。
「千尋さん、でいいですか?」
「詩織ちゃんに名前で呼ばれると嬉しいね」
千尋さんは嬉しげな声でそう言うと、背後から私の顔に唇を寄せ、頬っぺたにチュッとキスをした。
そして「よくできました」と言わんばかりに、頭も軽く撫でてくれる。
名前を呼んだだけなのに、こんな些細なことで彼は嬉しいと笑顔を見せてくれる。
それならもっと言いたい、彼が喜んでくれることをなんでもしたい、そんなふうに思った。
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