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夜の帳がすっかり降りた帰り道
街灯に照らされる歩道を
並んで歩いていた
ソーレンとレイチェル。
その足がふと止まったのは
黒地に金文字で書かれた
ひとつの看板の前だった。
『BAR Schwarz』
その文字は
煌びやかでもなく
目立つ装飾もない。
だが一目見て
ただの酒場ではないと分かる
雰囲気があった。
無骨で、静かで
格式を感じさせる佇まい。
「へぇ⋯⋯。
なんか、良さげじゃねぇか。
少し飲んでから帰ろうぜ?」
「えっ?今からバー?」
驚いたように言いながらも
レイチェルは顔を綻ばせる。
ソーレンが
興味を示した場所というだけで
どこか特別に思えた。
重厚な黒い木の扉を
ソーレンがゆっくりと押し開ける。
ギィ⋯⋯という音すら
洗練された静けさを崩さないような
品のある響きだった。
中に入ると
薄明かりのランプが
仄かに灯る空間が広がっていた。
空気はどこまでも静かで
低く流れるジャズが耳を撫でる。
カウンターの奥には
磨き抜かれたグラスがずらりと並び
その棚の前に立っていたのは
一人の男だった。
中年とも
壮年とも言える落ち着いた風貌。
艶のない黒髪をきちんと撫で付け
シャツにベスト
そして
燕尾のようなジャケットを纏った姿は
まるで老舗ホテルの
バーテンダーのようだった。
その男が
こちらを見て僅かに目を見開く——
が、すぐに微笑みを浮かべて
会釈した。
「ようこそ、BAR Schwarzへ。
初めてのご来店ですね?」
「⋯⋯ああ。通りかかって、な。
ふらっと寄らせてもらった」
ソーレンがぶっきらぼうに言えば
男は微笑みを崩さぬまま軽く頷いた。
「ありがとうございます。
当店は基本的に
ドレスコードがございます。
本来であれば⋯⋯
全身黒の服を着用いただくのが
ルールなのですが⋯⋯
今日はお二人とも
ほぼ条件を満たしておられる」
その言葉に
レイチェルが思わず
ソーレンの服を見やる。
彼はいつもの
深緑のライダースに黒シャツ
黒いパンツ。
まるで最初から
このバーを目指していたかのようだった。
「まぁ⋯⋯ラッキーだったのかも?」
レイチェルが微笑むと
男は頷いて言った。
「ご案内いたします。
お好きなお席へどうぞ。
カウンターでも、奥のソファでも」
「カウンターでいい」
ソーレンが即答すると
男は手をすっと
洗練された動きで先導する。
二人は重い椅子に腰掛けると
改めて店内を見渡した。
照明は暗め。
だが不思議と視界は開けており
席と席の間には
絶妙な距離が保たれている。
会話の声が隣に漏れることも
他人の存在を気にすることもない。
それでいて
どこか心の奥を探られるような
そんな空気があった。
「おすすめは?」
ソーレンがカウンターに肘をつき
目だけで問うと
男は少しだけ口元を綻ばせた。
「初めてのお客様には——琥珀の誘惑を」
「⋯⋯洒落た名前だな」
「口当たりは優しく
けれど芯に熱を帯びた——
大人の夜に相応しいカクテルです」
レイチェルがくすっと笑い
ソーレンの隣で小さく囁いた。
「ねぇ、私もそれにしようかな?」
「⋯⋯あぁ、いいんじゃねぇか?
駄目なら、俺が飲めば良いし」
グラスの中に注がれる
琥珀色の液体。
僅かに香る洋酒の甘みと
仄かな煙草のようなスモーキーさが
鼻をくすぐった。
そして——
バーテンダーの男の視線が
ほんの僅か
二人のどちらかを見つめる時間が
長くなったような
そんな錯覚を残しながら——
静かに、夜は深まっていく。
「お二人は⋯⋯飲食店勤務の方ですか?」
不意に向けられた問いに
レイチェルは一瞬、瞬きをした。
カウンター越しに
グラスを磨きながらそう言った
マスターの表情は
ごく自然で、柔らかい。
だがその目には
何かを見通すような光が宿っていた。
「へぇ?さすが、バーテンダーだな?」
ソーレンが低く唸るように笑うと
マスターは穏やかに会釈を返した。
「お褒めに預かり光栄です。
職業柄、人の癖や所作
纏う香りに目が行ってしまうもので」
そのまま
彼は琥珀色のグラスを差し出しながら
どこか楽しげに語り始めた。
「まず、指先——」
レイチェルとソーレンの
指先を軽く見る。
「ナイフやトングをよく使う方特有の
指の腹の僅かな硬さと
動きの癖があります。
指を伸ばすときに
指先からではなく関節から
立ち上げるような動きになる
これは、熱い皿や鍋に触れる
リスクを減らす癖ですね」
「へぇ⋯⋯っ!」
レイチェルが思わず
自分の手を見下ろした。
「加えて
お二人とも衣服に
僅かに香る香辛料。
オープンキッチンではなく
厨房とホールが繋がった形の
店舗で働いておられるのでは?」
「厨房の⋯⋯香り?」
「えぇ。
お客様に気付かれない程度の
ほんのりとした香りですが
それは毎日身に付くものですから。
お香や香水とは違う
自然な〝調理の気配〟があります」
マスターはさらに
グラスを片付けながら言葉を継いだ。
「最後に⋯⋯動作です」
「動作?」
「ええ。
グラスを持つときの重心。
お二人とも
まず〝滑り〟を想定して動かれる。
手元の動きに自然とブレがない。
それは、飲食店で培われた習慣です」
そう言って
微笑を浮かべながら付け加えた。
「おそらくですが
単なるホールスタッフではない。
一定以上の裁量を任された方——
そうお見受けしました」
「⋯⋯なるほどな」
ソーレンが
短く唸るように返したその声には
僅かに警戒心が滲んでいた。
そしてマスターが
やや身を乗り出して言葉を重ねた。
「因みに、何処のお店ですか?」
その一言で——
ソーレンの表情が、一気に冷めた。
ふっと口角を落とし
グラスの縁に触れた指が
ぴたりと止まる。
「⋯⋯悪ぃな。
俺はあまり
詮索されんのは好きじゃねぇんだ」
その声には
いつものぶっきらぼうな調子とは違う
明確な牽制の色があった。
マスターは
それに気付いたように軽く片眉を上げ
すぐに微笑みに戻る。
「失礼いたしました。
お詫びに
次の一杯は私から差し上げましょう」
そうして
再び彼は氷を丁寧に削り始めた。
まるで、何事もなかったかのように——
けれど
その空気の揺れだけが
グラスの水面に残っていた。