コツリ、コツリと鳴った足音が生徒の声で賑わう廊下に揉み消される。吐き出しかけた疲労とストレスからのため息を押さえ込んで再び手の中にある病的にテンションの高い同僚から押し付けられた書類へと目線を落とした。
真っ白な紙に書かれた文字たちをラッダァの脳は認識することを拒んでいるのか文章を理解しようとしても、全身に渦巻く気だるさと強大な欲がそれを拒否していた。従えたい、支配したいという悪魔の本能とは違うダイナミクスによって顕になった強い欲だ。
人間界にはダイナミクスという第二の性がある。大きくわけてしまえば、支配したい、従えたいという欲求があるDomと支配されたい、褒められたいという欲求があるSub、そしてその両方に属さないNormalという大多数を締める性だ。その人間世界だけにあったはずのものが、最近になってここ魔界でも次々と見つかるようになっていた。
人間界ではPlayとCommandを使用し互いの欲求を満たすのが普通だが、最近になって見つかり始めた魔界ではダイナミクスをコントロールするための所詮夜の店や抑制剤などは成人した悪魔には普及されていない。そのため、パートナーのいないDomやSubは耐える、または犯罪行為となりうるものしか方法は残されて無かった。そして、診断も最近まで広まっていなかった魔界では自分の第二の性がなんなのか知らない悪魔も多い。その場合は湧き出る欲求から判断する他なく、ラッダァもその1人だった。
「先生?大丈夫ですか?」
いつの間にか訪れていた静寂の中、聞き覚えのある声が聞こえてきた。自分達の他に悪魔がいない空間だということを証明するようにナカムの少し高い声は廊下によく響く。プリントから顔を上げて目の前の彼に目線を合わせる。欲が声に出ないようにと慎重に音を出す。
「あぁ、ナカム。どうしたの?」
「どうしたのって、ここ…白尾師団の目の前ですよ?」
いつの間にこんなところまで。そう思い思い辺りを見渡すと周りは閑散としていてあれだけ騒いでいた生徒たちの姿は見えない。
「ちょうど良かったです。手伝って欲しいところがあって、教えてください」
どくり、と心臓が大きく跳ねる。嫌な胸騒ぎと静かな嬉しさで無意識に1歩後ろに下がった。
「いやぁ、ごめん。今から行くとこあるからさ!」
「ほんっとに少しだけなんで!師団室目の前なのでお願いします!」
パチリ、と透き通った水色の瞳に目が合った。馴染みある生徒の頼み込む姿に心苦しく思ってしまい仕方なく了承したラッダァは更に大きな音を鳴らす鼓動から耳を背ける。
先程の小さいけれど確かな刺激を気の所作だと思ってしまいたかった。
Σ
師団室の中は真面目な師団メンバーから来る想像とは違いすごくゆったりとした雰囲気だった。仮眠用だと思われるクイーンサイズと思われるほど大きなベッドや同じく大きめのソファ、そして6つの机が位置している。
「先生こっちです」
先に椅子に座りまだ新しく見える分厚い本を広げたナカムが座っている。つい先程の欲が渦巻いていた脳とは一変したように容易くナカムの声が頭に入ってくる。隣の椅子に手を添えていることからここに座れということらしい。そのことになんの疑いも持たずラッダァは静かに座った。
「試してみたい呪文…?があったんです。試させてください!」
「あ、うん……いいよ」
そのナカムの言葉になんの疑いも持たず頭の重さに従うままゆっくりと頷いた。「呪文…?」という呪文かすら怪しい言葉も、詳しい概要が説明された訳でも無いのにラッダァは二つ返事で許可を出した。
その言葉を聞いた刹那、ナカムの顔が明るくなった。そして机の上に置いてあった分厚い教科書のように見える本を膝に乗せラッダァと向き合うように座り直す。
「じゃあ先生、早速使ってみますね。」
パラパラとページを捲り中身を見てから再び机の上に本を置く。少し考えたかと思うとナカムは己が座っている椅子を少し後ろに下げ、音を放った。
「ラッダァ先生、”kneel”(お座り)」
ナカムが単語を話した刹那、ラッダァの脳みそに微妙に残っていた思考が散る。全く知らない単語のはずなのに体は勝手に単語の意味を理解したらしく座っていた椅子から降り、床に太ももの内側を付くようにして座った。
この一連の動作が終わるとラッダァはジッと未だ椅子に座っているナカムを見た。その瞳には期待の色が入っている。
「はは、やっば…w」
小さく笑みを混ぜた声でそう呟く。それから場所を移動し、ナカムはソファに座ると2度目のコマンドを出す。
「Come」
来い、という命令の意図をしっかりと理解したラッダァはkneelの体制を崩さずにはうように這って移動する。ナカムが指を向けていたナカムの足もとへと来ると再びぺたりと座った。
「せんせ、Goodboy」
その言葉と頭を撫でられる感覚でラッダァのスイッチは完全に切り替わった。加虐的な欲望から比べ物にならないほど大きな被虐的な欲望へと変わる。仕事柄、褒められることが無くなったいたからだろうか。短いその言葉でも溢れるほどの達成感と確かな嬉しさで欲が少しづつ満たされていく。
そして、ナカムのことをランクの高い、強いDomだと深く考えることを放棄した脳で認識し、自分のことをdomではなくSudだと本能で認識する。
「じゃあ早速ですけど…そこ、Present(見せて)」
そう言い指したのは赤いマフラーが鎮座している首元だった。急所を見せることに対して隠しきれない戸惑いによるおぼつかない手つきでマフラーを外していく。白く細い首が顕になると、ナカムはそこに手を滑らせた。触ったことでビクリと震える肩を横目にナカムは次のCommandを出し始める。
「Good。じゃあ、Up(上を向いて)」
恐る恐る上を向き、首を晒す。殺されるかもしれないという根拠の無い恐怖がラッダァに降り掛かってくる。
するり、と手とは違う感覚が首に巻きついてくる。ちょうど1周して数秒だった後それは取り除かれた。安堵したラッダァに明るく愉しげな声が降りかかる。
「先生Good!Goodboy! 」
そう言ってニット帽に手を差し込み髪をわしゃわしゃと撫でるナカムの片手にはメジャーが握られている。首の太さを計っていたのかと、緊張が消え少しづつポヤポヤし始めた脳で理解する。
「ねぇナカム、今のって……」
「あぁ、少し首の太さを図らせてもらったんです。今度、俺からプレゼントを送ろうと思って……collarって言うんですけど」
「ふーん」
「今度渡す時に説明しますね。」
どこか遠い記憶で聞いたことがあったラッダァはその単語の意味を再確認する。domがsubに送る首輪。簡単に言ってしまえばdomがsubを自分の物だとマーキングするひとつの印みたいな物だと記憶を掘り起こす。
「先生、今日は付き合ってくれてありがとうございます。」
ナカムの声で意識が現実に戻ってくる。身体が満たされ幸福感に包まれる時間は終わってしまったのかと心の奥底で残念に思ったラッダァは終わりを未だ実感したくなかった。ナカムから渡された赤いマフラーを受け取りながら教師としての立場と自分の欲とで逡巡していた。
「物足りない顔してますよ。……先生、もっと欲しいですか?
なら、欲しいって言ってください。」
ラッダァの頭の中で理性が働いている教師の自分と悪魔の自分が葛藤している。
「ほら、はやく。終わっちゃいますよ?」
Commandを使われていないにも関わらずラッダァの声帯は音を発していた。負けたのは理性の方だった。
「もっと…ちょうだい」
「先生Goodboy」
その言葉で背徳感は消えていた。
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「」
なかむが呪文を唱えると、体がふわりと浮かされ、そのままベッドへと仰向けで落とされた。2人分の体重を支え、ぎしりと苦しそうな声を上げるベッドの上でなかむはラッダァの足の間に座る。ズボン越しに太ももを撫でられるとなんとも言えない感覚が全身に走る。
「ひぅ……」
「先生、感じてるんですか?かわいい」
変な声が出ていることに気づき、両の手で呼吸ができないほど強く口を塞ぐ。これからまたあの幸福感に浸ることが出来るのだと分かっているからこそ、抵抗はしなかった。
「声、聞きたいです。give」
「………ッ」
Commandの意図を理解したラッダァはどうしても嫌で首を横に振った。あの声はもう出したくないという意思表示だ。ナカムはその返答に残念そうな顔をする訳ではなくじっと目を合わせる。水色の瞳が青を掴んで離さない。
「ラッダァ先生」
名前を呼ばれるのを合図と言わんばかりに経験したことの無い圧が浴びせられる。すると口を抑える腕も含め全身が小さく震えだした。水色の目から目を逸らしたいのに叶わない。ランクは俺の方が高いという思いとは裏腹に脳は確かな恐怖の感情を察知し涙袋から溢れたそれが頬を濡らす。動揺する間もじっと見る目は変わらず、口から手を離し両手を差し出した。
「先生、Goodboy。よく出来ました」
手を取られ、引き抜いたパーカーの紐で合わせて縛られ頭の上でシーツに縫い付けられる。
「欲しそうな顔してる。可愛い」
据え膳を見下ろす獣に先程の圧とは別の感情を感じる。もっと、もっとと訴える欲を包み隠さず見せるようにして欲の滲む目を合わせた。
コメント
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新しい扉がまた一つ開きました。ありがとうございます!!❀.(*´▽`*)❀.