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#ワンナイトラブ
甘い、香りがした。
瞬間、鼻に明らかな違和感を感じて勢いよく目を開けると、視界にはその人のドアップしか映らないので目覚めと同時に思考は大慌てした。
「っ!?いま、鼻つまみました!?」
「はい、つまみました」
平然とその事実を告げると、常葉くんはキッチンへ向かい冷蔵庫に手を掛けた。
なんで、摘んだんだろう。
自分の鼻をぐりぐりと捏ねて、もうひとつの違和感。
置いたはずの、眼鏡がない。
……あれ?
「……常葉くん、眼鏡知りません?」
「落ちてたんで、向こうのテーブルに置いてます」
常葉くんは1度もこっちを見ずに、ミネラルウォーターと思われる飲み物を口につけた。
……落とすところに置いたつもり無かったんだけどな。
「どうも」と、声にして再び違和感。
纏めていたはずの髪の毛が解けて、ふわりとした毛先が緩やかに胸の前に落ちる。
……ん?クリップも……ない。
ぼんやりとした視界の中、橘さんに貰ったばかりのクリップの行方をキョロキョロと探すとカウンターの端にそれがあった。
……良かった、また失くしたかと思った。
「飲みます?」
「あ、はい。ありがとうございます」
大事そうにそれを両手で包んでいると、常葉くんはグラスを差し出すので有難くそれに口を付ける。
常葉くんは私服姿なので、一度帰ってから出掛けたのだろう。
どこいってたのかな。もしかして、デートかな?
…そうだとしたら、早く帰らせてしまって申し訳ないな。
「風呂、入ります?」
常葉くんはカウンターテーブルに凭れると、そう促してくれた。
て言うか足長いな。私だったらこのテーブル、腰を持ち上げないと乗れそうにないのに。
華奢で均整の取れたしなやかな体躯に毎度のことながら見蕩れてしまう。しかし迷子になりそうな理性を見つけて手を振る。
「そんな、居候が先に頂けませんよ」
「……一緒に入りますか」
「け、結構です!」
「何を今更」
ふ、と、鼻で笑ってみせる三歳も歳下の男の子。
嫌でもその裏の意地悪な考えが分かるので、急いで頭を振り邪気を払った。
「と、常葉くんは見たかもしれないですけど、私は覚えてないので今更も何もっ」
「可愛くないですね」
ポケットに手を突っ込んだまま、常葉くんは興味無さそうに呟く。
だけどその一言は私にとっては魔法の言葉で、顔の筋肉が緊張して笑顔が強ばる。
そんなの、自分が一番、
「知ってます。昔から、姉と比べられて生きてきたんで」
嘲笑ってみせると、「どういう意味?」と、常葉くんは首を傾げた。どうやら、この話はしていないようだ。
「…………美人で出来のいい姉が居るので。物心着いた頃から、私は期待ひとつされた事がありません」
言い終わって、すぐに我に返る。
「あ、興味のない話題ですよね、すみません」
「一昨日の穂波さんは可愛げがありましたよ」
少なくとも、と、急に耳は違った声色を聞かせるので、会釈しようとした頭は強引に止めた。
「……本当ですか?」
「可愛げというか、ウケるだけですけど。さっさと風呂済ませて下さい」
くるりと踵を変え背中を見せた常葉くん。
興味を全くもってくれないから、かな。
何でか常葉くんにはポロっと本音を言ってしまう自分が居る。
それがすごく怖い時もある。
「……あ、そう言えば、お金の計算してみたんです」
お風呂上がり。洗面台の前でクリームを満遍なく肌に染み込ませる間にその旨を告げた。
常葉くんは昨日と同様洗濯機に凭れて中座りして、私の重大発表よりもスマホの方が大事みたいだ。
やっぱり、私は女に見られてないのだろう。と、靄のかかったみたいにぼんやりとする世界で再確認をする。
「それで?」
「えーっと、3ヶ月くらいかかりそうで……」
申し訳半分で、後半ごにょごにょと口篭りながら伝えると常葉くんはただ「そうですか」とだけ零す。
そうして、宙を漂う様にその瞳がこちらを見上げる。
「内訳は?」
「前の家の家賃とか、諸々の引き落としの手続きが間に合わなくって、今月分は見込みが無くてですね」
「全部穂波さんが出してたんですか?」
「はい。それと先月の連休で旺くんと海外に行ったんですよ。その時結構カード切ってて、引き落としがですね…」
「………そんなに買ったんですか?」
「私というか、大半は旺くんですけど。あ、ちゃんと二人で使えるのも買いましたよ?」
思い返せば後ろ髪がぐいぐい引っ張られる。
一度も着てない服あったなぁ……その前に、旅行から帰るとすぐに新年度の準備とかで着る機会も使う機会も無かったから、未使用のものばかりだ。
最早笑い話になりつつあるその思い出に一人、はは、と、乾いた笑い声を出した。
だけど、視線の先の常葉くんの顔はぼやけた視界でも分かってしまった。
そこに笑顔は乗っていなかった。
「……本気でバカなの?」
低いトーンのその一言を乗せた顔は、私がいつも、仕事で使っているような表情だった。
怒ってもない、呆れもしていない、ただ、無表情。
読み取れない、彼が一体何を思っているのか。
だから私の脳内は戸惑って「え?」と絞り出すしか出来なかった。
「……本間さんがあんたのこと、本当に好きとか思ってる?」
いつもながら容赦のない言葉を聞かせるので、胸の奥は未だにチクリと痛む。
鳴り止まない着信、トークアプリの対岸からの言葉。
ほんの少しだけ、許すべきか迷う情けない自分はその言葉でペチャンコに潰されまいと必死だ。
「……ち、がうの……?」
視界不良の世界でも、もう分かる。冬の夜空の様に深い黒の瞳が真っ直ぐと私を見つめている。
指先が微かに震えてきた。あれは幻だったと、その現実を突きつけられる気がして震えた。
「人間って、嘘がつけますよ」
それに、と、耳を塞ぎたい私に構わず彼は続けた。
「お金が嫌いな人間って居ないだろうし」
静かな抑揚に、心臓は嫌な音をただ鳴らした。
お風呂上がりの火照った身体なのに、熱が全身から覚めて血が抜けていく心地さえする。
それ以上は、聞かない方がいいよって、
心の奥の私がドンドンと叩いている。
「……お、かね?」
だけど無意識に口を開くと、常葉くんはゆっくりと立ち上がり冷めた夜の瞳で私を見下ろした。
「彼女じゃなくて、財布代わりに見られてるんですよ」
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