テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
「そ、そんな事。……旺くんだって、浮気は一度きりだって」
「俺の見立てじゃ本間さん、他にもいますよ」
心の内側で聞こえていた音は、段々と静かになっていく。視線はうろうろと泳ぐのに、視界は常葉くんの姿以外を映そうとはしない。
「浮気相手」
呼吸も抑揚も乱すことなく、ただ憶測だけを彼は告げる。
わかる、わかるよ。……わかっちゃうの。
だけど働きたくないちっぽけな頭は「なんで?」と、訊ねることしか出来ない。
彼は変わらない表情で、こう続けた。
「そもそもどうして周囲に内緒にする必要が?社内恋愛してる人そこら中にいるじゃないですか。うちの会社、容認してる方だと思いますけど。そんなの俺より長いんだから、考えたことないんですか?」
矢継ぎ早な質問に、喉の奥がヒュッと音を鳴らす。
「……っ、それは、冷やかされるのが恥ずかしいからって」
「彼女の事を恥ずかしいって宣言する男と良く付き合ってられますね」
…そうだよ、そうなの。だけど、しがみつくしかできかったの。
企画のエース、顔も良い、仕事も出来る、人当たりもいい。
そんな人が、浮いた話もないし鉄壁なんて揶揄される私の彼氏だなんて、本当は言いふらしたかった。
クールな女が好きだって言うから素は出せなかったけど、旺くんだったらそのうち私の全部も好きになってくれるのかなって思ってた。
“秘密にしておこう”
だけど、彼が出したのはそれだったから、もっと彼の好みに近付けなきゃって思った。
そうしたら、きっといつか、彼から周囲に報告してくれるだろうからって勝手に夢を見ていた。
もう、夢を見る暇もない年齢なのに。
知らずのうちに呼吸が乱れた。意志とは裏腹に指先が震えて、それを見られたくなくてぎゅっと握りしめる。
「常葉くんは、自分に自信があるからです。だからそんな事が言えるんです!」
「自信?その一言のせいにして、都合のいい女になってるわけですか」
「……都合?」
「そうでしょう」
言い捨てると、やっと彼の表現が少し崩れた。それは背筋にひやりとした汗が流れる程、恐ろしく綺麗な、冷めた微笑みだった。
「……だって、あの人にとって穂波さんは」
聞きたくない、聞きたくない。
心臓は嫌な音を消してはくれない。
「財布、家政婦、性欲処理。全部、都合のいい女」
子どもをあやす様に、殊更ゆっくりと穏やかに胸を突き刺す言葉。
常葉くんは私の顎を手に乗せてくいっと簡単に持ち上げた。すぐに顔が対面する。
「……やり直そうって言われたら、やり直すつもりでした?」
見透かされ、思わず目を見開いた。だけど、その視線からは逸らさなかった。
「……あんた、今のままじゃ本当に救いようがないですよ」
一瞬のうちに、頬に熱が篭る。
それとほぼ同時に、自制が効かないそれは、私の体を動かした。
乾いた音が、湿気を纏う狭い空間に響いた。
頬の熱はいつの間に瞳に移動して、意志とは裏腹に勝手に視界が滲んだ。
目の前の瞳が再び私を捉えた時には口元に笑みは浮かんでいなかった。
ドクン、と、勝手に脈打つ鼓動は心臓を耳に連れてくる。
空を切ったその手は華奢な指先に簡単に掴まると、身体に彼の熱が伝わりビクリと身動ぎした。
もう、顔は見ることすら出来なかった。
見たら何かが始まる、それくらい分かる。
「っ、は、なして……っ」
後ずさりしても直ぐに洗面台にお尻が届いて追い詰められる。自由な片方で顔隠してもそれすら剥がされるので、思いっきり顔を背けた。
だけどそれがいけなくて、代わりに差し出した首筋に軽く体温が触れた。
途端にビクリと跳ねる身体、擽ったい心臓の内側。
「ふっ……あっ」
「弱いですよね、ここ」
側面から耳朶に向かって這われると、全身を強ばらせているから小刻みに震えてしまう。
固く目を閉ざしているのに、勝手に涙が溢れる。
「お、おねがい」
「…何ですか」
「……っ、や、めて」
「……聞こえません」
「やめっ……」
目を開けて見上げたその時、唇がそれに奪われた。
そっと触れるように、上唇を唇で甘噛みされるだけのキスはあまり経験の無いそれで、何度か繰り返されるだけですぐに息が荒れた。
肩で息をする私を落ち着かせるように、腕の拘束を解いた常葉くんは髪の毛を撫でるとそのまま私の後頭部を支える。
熱を受け渡すようなキスを受け止めていると、突然、角度を変えたと思えば後頭部を持ち上げられて、深く割って入ってくる。
ピタリと体が密着しては苦しくて胸板を力任せに叩いた。無意味だと知って。
強ばる口も、私を撫でる手のひらだけは一様に優しいのだから、勝手に力が抜けてしまう。
柔らかい舌は、私を見付けると優しく包むように触れて、確認するように熱を預ける。
優しくなぞられて、その熱に溺れそうになる。
意識を全部持っていかれたくないから、叩いていた手でぎゅっと服を握りしめた。
知らないのに、知っている。
安っぽいキスじゃない
簡単に終わらせてくれるキスでもない
酷く甘くて、泣きたくなる。
やっと顔が離れると、既に息が上がっていた。
至近距離にはっきりと映るその表情はやはり無表情で、ただ静かに私を見下ろしていた。
それが不謹慎にも綺麗すぎて視線を逸らせば再び軽い音を鳴らして唇が重なる。
「と、きわくんだって、あれは、何?」
「……何が?」
「……大丈夫って、なんの事?」
「ふぅん、思い出したんですか」
「……思い出してないから、聞いてるんです」
乞う様に見上げれば、やっと常葉くんはいつもみたいに意地悪な笑顔を浮かべる。
だけど、何故だろう。
その笑顔に、変に安心してしまう私がいて、油断していた。
「自分で思い出せよ」
そう言って、彼は火照った私に再び熱を渡した。
その熱は私が知りたい記憶を連れては来てくれなかった。
代わりに、煩いくらいの心臓の音だけを私に聞かせてくれた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
1,231
#ワンナイトラブ