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夏だというのに、身を切るように冷たい雨だった。
バケツをひっくり返すという表現があるが、本当にそれが言い得て妙だと実感できたのは初めてだった。
美緒と一緒にレンタルした浴衣は雨で濡れ、慧の心と同じくらい重くなっていた。
人の流れに沿って、慧は歩いていた。
何が起こっているのか、分からなかった。
頭と感情が、現実に追いついていけない。
これまで信じていた物が、一瞬にして崩壊した。
あの時の美緒の表情。何も言わない彼女が、『全て』を、『真実』を物語っていた。
今までの事は、全てが『嘘』であると。
何故? どうして?
様々な疑問符が頭に浮かんでは消えていく。いくら考えようとしても、噛み合わない歯車のように、頭が回転しない。
美緒はどうして慧を裏切ったのか。それどころか、これまでの数ヶ月、全てが偽りだったのだろうか。
あの屈託のない笑顔。手の温もり。そして、キス。
全てが嘘偽りなのだろうか。
膨大な時間と手間暇を掛けて、親しくもない慧を騙していたのだろうか。
ぽっかりと開いた心に、怒りが込み上げてくる。
人間じゃない。
まともな人間ならば、三ヶ月近くも、恋人として騙せるわけがない。
慧と美緒は何の接点もなかった。恨みを買うほどの間柄でもない。
美緒の友人達とは、話したことさえない。それなのに、美緒は、美緒達は慧をターゲットにした。その理由が、『草食系』、つまり、『人畜無害』だったからだそうだ。
彼女は、あの笑顔を浮かべながら、心の中では慧を嘲笑(あざわら)っていたのだろう。
「くそっ! くそっ!」
雨の中、立ち止まった慧は毒づいた。
「クソッ!」
大声で叫ぶが、慧の叫び声は雨の音に掻き消された。
「美緒……さん、どうして? どうして? 好きだったのに……」
涙が出てきた。それと一緒に、激しい吐き気が込み上げてきた。
関口克巳の高笑いが頭の中に木霊している。
バーカ、お前は騙されたんだよ!
そう言って、克巳は美緒の肩に腕を回した。美緒はその手を受け入れ、慧を見つめるだけだった。
違う。嘘だ。
彼女の口から、克巳の話を否定する言葉は紡がれなかった。
慧は口を押さえ、細い路地に入った。そこで、胃の内容物を全て吐き出した。
美緒と一緒に食べた焼きそばとたこ焼きが、ぐちゃぐちゃになって水たまりの中に飛び散る。
「ううう……」
跪(ひざまず)いた慧は、更に吐瀉物を撒き散らしながら、涙を流した。大粒の涙が目からこぼれ落ちるが、すぐに雨が洗い流してくれる。
吐瀉物まみれの水たまりの中に佇みながら、慧は泣いた。
一瞬、怒りを感じたがすぐに怒りは消えた。吐瀉物と一緒に、怒りを吐き出したようだ。
怒りが消えた心。その心に残ったのは、寂しさ、悲しさだった。
美緒が好きだった。どんな噂があろうとも、美緒を信じていたし、本当の彼女は良い子だと思っていた。だけど、彼女は噂通りの人物だった。いや、噂以上だ。
それなのに、慧は心の底から美緒を嫌いにはなれなかった。あれほど酷い仕打ちを受けたというのに、心の何処かでは美緒を信じていた。まだ、彼女の事が好きだった。