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【現実世界・旧本社地下/B2内側】
ライトの光が、通路の曲がり角を舐めるように揺れた。
無線の短い交信音――言葉までは聞き取れないが、
複数人が迫っているのはわかる。
床の“黒い継ぎ目”は、さっきまで点だった。
それが今は、線になり、線が面になり――コンクリートをゆっくり置き換えていく。
サキが息を飲む。
「……広がってる……」
ハレルはケースを抱え直し、視線を上げる。
(閉じ込める気だ。ここごと“向こう”に縫い付ける)
木崎が即断した。
「正面の階段は捨てる。追い込まれる」
「じゃあ――どこへ?」
「“搬入”には必ず別の逃げがある。配管、レール、非常梯子。探す」
木崎が壁際をなぞるように進む。
錆びた案内板、古い注意書き、剥がれた矢印。
その中に、辛うじて読める文字があった。
――保守用通路/DRAIN
――B2→B1 非常梯子
「……あった」
木崎が低く言う。
「こっちだ。狭い。サキ、先に入れ。体が小さい方が有利だ」
サキが頷き、震える声で返す。
「私、行ける。……“見張り”もする」
金属の保守扉は半開きだった。
内側から吹く空気が、ひどく冷たい。
潮の匂いではない。薬品でもない。古い紙と湿った石――そんな匂い。
ハレルが扉に手をかけた瞬間、ネックレスが熱を帯びた。
熱が“引く”ように変わる。
まるで、「ここから先はもう戻すな」と言われているみたいに。
(……それでも行く)
ハレルはケースを抱え、身を滑り込ませた。
直後、背後でライトの光が壁を横切った。
「止まれ――!」
誰かの声。
木崎が即座にハレルの肩を押し、扉を引いた。
ギン、と金属が鳴る。
古い蝶番が悲鳴を上げたが、扉は閉まった。
サキが小さく言う。
「……こっち、暗い」
「スマホの光は最小だ。見つかる」
木崎が息だけで指示する。
狭い通路を、三人は身を屈めて進む。
足元の水たまりが、やけに粘ついた音を立てた。
黒い継ぎ目は、ここにも“指”のように伸びてきている。
ハレルはケースを抱えながら、歯を食いしばった。
(回収した。……だから、持ち帰る。絶対に)
◆ ◆ ◆
【異世界・ミラージュ・ホロウ/心臓室】
【FORCED CLOSE】
赤い表示が、点滅を早めた。
黒霧は露骨に“出口”へ流れていた。
床を這い、壁を舐め、扉の縁を黒く染めていく。
閉じる。固定する。――この部屋を棺にするつもりだ。
アデルが杭の配置を変えた。
三角を解体し、通路側へ“細長い防壁”を作る。
守るのは柱ではなく、退路。
「リオ、後ろへ。通路を切らせるな」
リオは脇腹を押さえ、短く息を吐いた。
「……わかってる、アデル」
黒ローブ三人が動いた。
今度は攻撃ではない。
杭の根元へ霧を流し、扉の縫い目へ“影の鎖”を刺す。
閉鎖のための手順が、淡々としているのが逆に怖かった。
アデルの左腕輪が脈を打つ。
白い波が広がり、空間の歪みを“押し返す”。
だが押し返した分だけ、黒霧が粘るように纏わりついた。
イヤーカフからノノの声。早口。
『アデル! 閉鎖は“扉”じゃない!
通路そのものを“無かった座標”に書き換えてる!
杭を壁にするより、退路を“線”で固定して! 一本の道として!』
「……理解した」
アデルは剣を一度だけ下げ、杭の光を“繋ぐ”ように走らせた。
白い光が、床に細い筋を描く。
心臓室から通路へ――一本の“帰路”を縫い止める線。
黒ローブの一人が、その線へ黒霧を叩きつける。
線がミシ、と軋んだ。
リオが一歩前に出る。
腕輪の青白い光が走る。
「……邪魔するな」
彼は空中に紋を描いた。
捕縛第三級――ただ縛るだけじゃなく、“位置をズラさない”形に寄せる。
「〈捕縛・第三級〉――固定」
光の縄が伸び、黒ローブの足元を絡め取る。
同時に、腕輪の反発が弾け、黒霧の流れが一瞬だけ止まる。
だが、リオの呼吸が乱れた。
脇腹が痛む。動きが鈍る。
それを黒ローブは見逃さない。影の鎖が、腕輪へ伸びる。
アデルの剣が割り込んだ。
「触れさせるな!」
金属音。火花。黒い粒。
リオが、悔しそうに息を吐く。
「……すまない。痛みが――」
「言い訳は要らない。生きて帰れ」
アデルの声は冷たいのに、命令は真っ直ぐだった。
次の瞬間、黒霧が“壁”になった。
通路の口を塞ぐように盛り上がる。
アデルが左腕輪を強く握る。
白い波が、今までより深く広がった。
「〈封縛・座標線〉――貫通」
床に縫い止めた“帰路の線”が光り、黒霧を押し割る。
リオが、そこへ青白い反発を重ねた。
「……押し返せ」
白と青が同時にぶつかり、霧の壁に“裂け目”が走る。
ノノの声が叫ぶ。
『今! 裂け目は数秒だけ! 走って! 走れ!!』
アデルがリオの肩を掴む。
「行くぞ!」
リオは痛みを噛み殺し、頷いた。
「……あぁ、アデル!」
二人は裂け目へ突っ込む。
背後で、黒ローブ三人が同時に手を上げた。
閉鎖を完了させる動き――だが、間に合わない。
裂け目の向こうへ飛び出した瞬間、心臓室の空気が“落ちた”。
扉が、重い音もなく“消える”ように閉じる。
【FORCED CLOSE】の赤い点滅が、壁の向こうで途絶えた。
通路に残ったのは、息切れと、霧の匂いと、まだ終わっていない追跡の気配。
アデルが一度だけ振り返り、低く言った。
「……帰還する。コアを守り切った。次は――回収後の処理だ」
リオは脇腹を押さえ、短く返す。
「……ハレル側も、今が一番危ない。急ごう」
◆ ◆ ◆
【現実世界・保守通路】
鉄の梯子が見えた。上へ続く。
だが梯子の下、床の黒い継ぎ目が、じわりと広がっている。
木崎が短く言う。
「止まるな。上がる。ハレル、ケースは俺が持つ」
「大丈夫だ、俺が――」
「腕が震えてる。落としたら終わりだ」
木崎がケースを受け取り、先に梯子へ手をかけた。
サキが後ろを見て、小さく囁く。
「……足音、近い。さっきの人たち……たぶん、探してる」
ハレルはネックレスを握りしめた。
熱はまだ残っている。
でも、さっきまでの“引力”みたいな熱ではない。
(開いた。回収した。……だから今度は、帰る番だ)
三人は梯子を上がった。
背後で、黒い継ぎ目が水面のように揺れ、通路の形を少しずつ変えていく。
追ってくるライトの光が、梯子の隙間をかすめた。
間に合え――
その祈りだけが、錆びた鉄の匂いの中で強くなる。
◆ ◆ ◆