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放課後。人気のない旧校舎の資料準備室──窓にはまだ夕方の光がうっすら差し込んでいて、埃の舞う空気がやけに静かだった。
教室の喧騒からも、生徒たちの足音からも遠く離れて、ここはまるで世界の外縁に取り残された場所みたいだった。
蓮司は、いつものように笑っていた。
ほんの少しだけ疲れたように見えたのは、光の加減か、それとも演技だったのか。
けれど──遥には、それすらどうでもよかった。
「……また、ここなんだ」
遥が小さく呟いた。
声は、どこか違う場所から届いたように、自分のものとは思えなかった。
蓮司は、壁にもたれかかって携帯をいじりながら、気のない返事をした。
「静かでいいじゃん。誰も来ねぇし。おまえも、ここなら落ち着くだろ?」
“落ち着く”なんて、誰が言った。
でも遥は反論しなかった。
だって、ここしかなかった。
逃げられる場所が。
蓮司が立ち上がる。
制服のボタンを、ひとつずつ外していくその手元を、遥は見ようとしなかった。
でも、気配で分かる。
何が起こるのかは、もう何度も繰り返されてきた。
それが嫌なことなのか、それとも“慣れた”だけなのか、もう自分でも判断がつかなかった。
ただ、蓮司の手がシャツの裾に触れた瞬間、ふと、息を呑むような感覚があった。
(……なんで、こんなことになったんだっけ)
遥は動かない。
でも、拒絶もしない。
身体が、頭より先に“受け入れる準備”をしてしまう。
それがまた、自分で自分を軽蔑する原因になっていた。
(痛いわけじゃない。苦しいわけじゃない。……でも)
蓮司の指先が首筋に触れる。
ぞわりと、肌が反応する。
脳が遅れてそれを認識する。
そして、心がどこにも逃げ場を見つけられないまま、奥に沈んでいく。
──気持ち悪い。
──でも、気持ちいいって錯覚することがあるのが、もっと気持ち悪い。
──それを、こいつに知られるのが、もっともっと気持ち悪い。
「……泣いてんの?」
蓮司がそう言ったとき、遥は初めて、自分が涙を流していたことに気づいた。
「泣いてねぇし」
声が掠れる。
「そ。ならいいけど」
蓮司は笑って、それ以上は追及しなかった。
いつも通りの軽さで、まるで何も起きていないみたいに、指を這わせ続ける。
遥は、その手に何も言えないまま、ただ静かに目を伏せた。
この男が自分を好きじゃないことは、最初から分かっていた。
沙耶香という名前を呼ぶ時だけ、蓮司は本当に生きているみたいな目をする。
それ以外のときは、どこか魂が抜けたような顔で、ただ“面白がって”いる。
「おまえ、さ……さっき、教室で泣きそうだったろ」
ぽつりと蓮司が言った。
遥は、少しだけ目を上げる。
あの“好きすぎて馬鹿みたい”なんてセリフ。
あんなわざとらしい言葉、誰が信じるっていうんだ。
でも日下部の目は、一瞬だけ、揺れてた。
(信じてほしかったわけじゃない。……突き放したかったんだ)
──なのに、なんであんなこと、言ったんだろう。
蓮司が遥のシャツに指をかけながら、ぽつりと呟いた。
「さ、今日も……泣き顔、サービスしてくれる?」
それが冗談か本気かも分からないまま、遥は黙って目を閉じた。
笑ってはいけない。
泣いてもいけない。
何も感じてないふりをするのが、唯一の正解だった。
──けど。
その夜、ベッドに横たわりながら、遥はひとりきりで考えていた。
「何もされない一週間」を思い出していた。
日下部の部屋の天井の模様。
音のしない食卓。
何も言わず、ただ遥の壊れた心を“見ていた”日下部の目。
(あいつは、なんで……何もしなかったんだろう)
何かをしてほしかったわけじゃない。
でも、何もされないことの方が、もっと怖かった。
今、蓮司に毎日のように“されてる”ことより、
あの何もない静けさの方が、遥を狂わせた。
──望んだわけじゃない。
──なのに、どこかで、もう一度、あの“何もされない時間”に戻りたいと思ってる。
そんな矛盾を抱えながら、遥は眠れない夜を迎えていた。