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(千寿郎目線)
私が朧げに覚えている昔の兄は、とても優しく、楽しそうに笑うことがある反面、人を思いやって涙を流せるような人だった。初任務で、先に来ていた隊士がすでに事切れていた時も、自分の鼓膜が破けた事なんかよりも悲しみ、兄の自室からは啜り泣く声が聞こえていた。そして鬼殺隊の柱になることを目標に一心不乱に剣技を磨き続ける兄は、幼いながらも自分の誇りだった。
私の母は、私が幼い頃に病で他界したために自分の中に特別な思い出というものはほとんど無かった。ただ、兄は違ったのだろう。母上が亡くなってから10年経った日から兄が涙を見せる事は無くなった。そして代わりに、大声で話し、よく笑うようになった。もともと涙脆い性格ではなかった兄だけれど、私の日輪刀の色が変わらなかった時も、任務で怪我をした時も、仲間の隊士が亡くなった時も、兄は泣かないどころか弱音ひとつ吐かなかった。
ある日庭先を掃除していると、兄が下弦の壱を討伐し、鬼殺隊最高位である柱に昇格されたと兄の鎹ガラスである要が報告しに来てくれた。兄の今までの血の滲むような鍛錬と、いくつもの夜を超えた成果が報われたのだと要と二人、庭先で涙しながら喜んだ。そして私は、すぐにでもこのことを父上に報告せねばと考え、父上の寝室に向かおうとした。しかし要がそれを許さなかった。
「キョウジュロウガジブンデイワナケレバナラナイ!センジュロウがイッテハナラナイ!!」
と、いつになく騒ぎ立てるので、私はではせめて兄に合わせて欲しいと頼んだ。しかし兄は今、任務による怪我と度重なる疲労で昏睡状態だから合わせることはできないと言われた。
驚いた。あの強い兄が昏睡状態になるほど怪我を負うなどということは、にわかには信じ難いものだった。そして、いつしか父が柱だった頃、一般隊士に言っていた言葉を思い出した。『柱は一般隊士が討伐できない、もしくはできなかった任務を率先して行うように指令が入る。だから柱になれば十二鬼月と戦うことも増え、より一層大怪我をすることも、四肢を失う確率も上がる。そして、無惨を討伐することになる可能性が最も高いのも柱なんだ。』私は泣いた。近いうちに兄がいなくなってしまう様な気がして、気が気ではなかった。さっきまでの喜びの感情とは打って変わって、今はただ、兄が無事に帰ってきてくれればそれだけで良い、危険な任務なんかいかないでほしいとさえ思えた。
「要、兄上に早くお帰りくださいと伝えー…」
しかし、そんなことを言ったら兄は困ってしまうだろう。ただえさえ任務でお疲れになられていらっしゃるのにこんな事は言えない。それに、治療が必要だということは私もわかっているではないか。そう思うと「早く帰ってきてほしい」などという我欲はどうして言えようか?
「センジュロウ…?」
要の心配そうな声で我に帰った私は、兄に伝言をしない代わりに兄と合同任務に出ていた継子の蜜璃様に伝言を託した。
要が軽々と飛んでいくのを見て、ああ、もしも私が要だったなら兄上といつも側にいられるのに、それとも私が鬼殺隊士になって兄上を支えることができたなら、少しでも兄を危険な任務に行かせる回数を減らせたのではないかと、考えたところでどうにもならないようなことばかりが頭をよぎっていた。
「せん…ろう………っ!…千…寿郎…!千寿郎!!」
「あ、兄上…!?」
気がつくと目の前に兄上が立っていた。いつの間にか外で寝てしまったのだろうか?起きあがろうと上体を起こすが、足が痺れていてうまく立てない。兄上が心配している、早く立たなければと、片手を井戸について上体を起こしたその時ー
ズルッ
「…え?」「ー千っ!!!」
井戸の淵が湿っていたのか、私の手が滑り、私はそのまま井戸の中に落ちてしまった。兄上が咄嗟に片手を差し出されたが、私はその手を握ることができず、怖さに目を瞑った。
バシャ…ドッ!
暗い井戸の中、水と井戸の底に体が叩きつけられる鈍い水音がした。
水圧に押されて体が締め付けられるように重い。体の感覚が鈍くなっているのか、冷たいはずの水が暖かく感じた。…しかし、底に叩きつけられたであろう体は少しも痛くなかった。目に水が入らないようにうっすらと目を開くと、…兄上がいた。
兄は私の目が開いているのを確認すると、そのまま私の袴の裾を持ち水面に向かって泳いだ。酸欠になっていた私が覚えているのはここまでだ。
次に目が覚めたのは、先ほどと同じく井戸の前だった。今回こそは落ちまいと、井戸には触らずに立ち上がり、自分の体を見たその瞬間、私は震え上がった。袴の所々に血痕がついているのだ。何処か怪我をしたのかと、体を確認したが不思議なことに体には切り傷どころか擦り傷すらない。しかも、不思議な事はもうひとつあった。兄の姿が何処にもに当たらないのだ。もしかしたら、あれは幻だったのかもしれないなどと考えながら、私は汚れた袴を着替えようと屋敷に向かって歩き出した。
その時ふと気がついたのだ。血痕が屋敷に向かって続いていることに。
もしかしたら…とよからぬことに気づいた私は草履を脱ぎ捨て、普段ならありえないことだが父上のいる部屋をノックせずに勢いよく開けた。
「なんだ、騒がしい。」
父上はいつも通り縁側に向かって寝そべって本を読まれていたが、私はそんなことお構いなしに尋ねた。
「兄上をご存知ですか!?」
父上が私の大声に驚いたのが背中越しにも伝わってきた。
「杏寿郎?任務じゃないのか?俺は知らん。」
その言葉を聞いて、私は頭が真っ白になった。屋敷に向かって血痕が続いていたので責任感の強い兄のことだ、任務で怪我をしたなどと父上に言って家に戻ったのだと思っていた。しかし、父上は知らないという。兄は家に帰ったら必ず父上に報告をしてから部屋に行くはずなのに。血痕の量からしてかなりの怪我をされているはずだ。…僕を庇ったばかりに。もしかしたら、何処かで苦しんでおられるのではないか、呼吸で無理やり止血してしまったのではないかと不安でたまらなかった。
気がつくと、私の目からは涙が溢れていた。
「なんだ?杏寿郎は何処にいる?」
「それが分からないから、父上にお聞きしているんです!!!」
つい、強い口調で言ってしまった僕の声は震えていた。その震えた声で僕が泣いていることに気付いたのか、父は起き上がって僕の方に振り返った。ここ最近、ずっとお顔を見せて下さらなかったから気が付かなかったが、久々に見た父上のお顔は酷く老け、目の下には濃い隈ができていた。私は強い口調で言ってしまったことを怒られると思い、慌てて謝った。
「すみません、つい強い口調で言ってしまいました。」
「いや、かまわん。」
父上は私を怒らず、優しい口調で制した。その時ー…
「カアアアアア!甘露寺蜜璃から伝言!伝言!」
要が勢いよく飛んで、部屋に入ってきた。要がここまで急いで屋敷に入って来るのも、かなり珍しいことだった。
「なんだ、千寿郎といい要といい…」と、ブツブツ言いながら父上が腕を差し出すと、要が止まった。その脚には伝言の紙が結んであった。私がそれを外すと、要はそれを読むように促した。
『煉獄さんが、治療中だったのに蝶屋敷から居なくなってしまったの。しのぶちゃんも凄く怒ってるし、何よりあの大怪我で動くのは危険だと思うわ。さっき千寿朗君からの伝言も聞いたし、だとしたらそちらに帰られてもいないのよね?あと、ちょうど他の隊士を見にお館様がいらしていたから、この事を伝えたの。そしたら無理は良くないからってことで、今から隠に探させるって言ってたわ。とにかくみんな心配してるの。私も足を怪我してて治療中で出れないのだけど、出来るだけ探してみるから、千寿郎君も何かわかったら鴉を飛ばして!』
やっぱり、あの兄上は幻じゃなかったんだ。では一体何処に…
私が立ち尽くしていると父上が手紙を奪い取って読み始めた。そして読み終わったのか、手紙に一筆加えて再び要の脚に結んだ。要が急いで飛び立とうとすると、父上は「いや、いまはいい。俺が探す。見つかったらお前はそれを届けろ。」といい、要と私を置いて部屋から出て行ってしまった。珍しいのは、父上が酒を縁側に置きっぱなしにしたことと、兄上のことで自ら行動したことくらいだった。