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大きくて丸々とした団子虫のような体に細長い手足の生えた異様な風体の男、醸す者が夜の路地を行く。
路地もまた風変わりだ。奇妙に捩くれた道筋、どこにも至らない階段、大小、材質、形も様々な扉が並んでいる。建物は積み上げられたように重なり、壁は呪文や数式や不思議な模様の落書きで埋め尽くされている。邪な魔性が人を惑わせるために造ったかのような路地だが、実際は人の手になるものだ。ただし作り手は魔法使いであり、半ば魔性のようなものだ。
高い建物が空を狭めているために星明かりは僅かで、その祝福が路地に降り注ぐことはない。代わりに色とりどりの魔法の灯火が路地に怪しげな影を誘い入れ、玄妙な燻りが香り立ち、呟くように爆ぜている。
そのような不思議な街の、そのような奇天烈な路地を行き交う人々はやはり奇態を衒うことなく大手を振って歩いている。取り分け奇妙な二本足で歩く団子虫にさえ目をくれず、人生に迷いなどないかのように幸福そうに笑い、楽し気に言葉をかわしながら別の路地へと煙のように消えていく。
大きな体に窓掛けのような厚地の服で覆ったアイソポトーもまた人目を気にせず、時折懐から煉瓦色の液体に満ちた瓶を取り出しては口にくわえ、大きく傾けて喉を潤す。葡萄酒の甘やかな果実味のある酒気を漂わせながら路地をずんずんと突き進む。
砂に染み込む水のように少しずつ人通りが減っていくが、アイソポトーが特別狭い奥まった路地を選んで歩いているわけではない。どころか、いかにも人々の憩いの場として愛されていそうな広場へと出てきたが、しかし誰もいなかった。まるで他に誰かが訪れるのは初めてであるかのように、静寂に満たされている。
アイソポトーは狭い空の底の広場の中心に立ち、酒瓶を呷りながらひとしきり周囲を眺めると満足そうに笑った。
「これが迷いの呪いか。面白い街だ。迷宮派だったか。気に入った」アイソポトーは独り言を酒息と共に吐きだしながら酒瓶を無造作に懐にしまう。「さて、確か、笑いがありとあらゆる迷いの呪いを解除するとかいう話だったな。……わっはっは」
アイソポトーは大口を開けてわざとらしく笑いながら一歩を踏み出そうとするが、その足を空中に留める。そして静寂の帳の向こうに耳を澄ませる。
どこかから泣き声が聞こえた。聞こえている。子供の泣き声だ。すぐ近くだ。
アイソポトーは笑みを引っ込め、泣き声の方へと歩いていく。細い路地に大きな体を押し込むようにして突き進む。もしやこれもまたどこかの魔法使いが考案した人を迷わせる魔術の一つだろうか、と思い始めたその時、まるで子供が隠れるために用意されたかのような窪みを見つけ、声の主の正体を見極めんと覗き込む。そこに今にも街の隅の薄暗闇に溶けて消えそうな、あえかなる少女が蹲って泣いていた。まるで寒さに震える小鳥のように丸まって、突如現れた大男を丸々とした目で見つめている。鳶色の髪を二つに結び、藍色のゆったりとした衣を身に着けている。胸元に垂らした首飾りをしっかりと握りしめ、小さく震えていた。魔法の類ではないように見える。
「どうした? 迷子か?」
少女は首を横に振り、震える声で答える。「違うよ。道に迷っただけ。おじさん誰? 迷子?」
「いやあ、まあ、迷ってはいたがな。試しに、だ。迷いの呪いとやらを直に体験してみたくなってな。ワーズメーズは初めてなんだ」
「ワーズメーズへようこそ、おじさん」
ミーチオン都市群のワーズメーズ。それは魔法使いたちがある強大な魔術に対し、幾星霜の挑戦を重ねた果てに築き上げた迷宮の都だ。
「ん? ああ、うん」涙声で歓迎されて不意を打たれた。「もう怖くなくなったかい?」
「怖いよ。おじさんは怖くないの?」と言いつつ少女は琥珀色の瞳からぽろぽろと涙を零している。
「まあな。怖くはない。それにこの街には何より強力な決して迷わずに済む魔法の加護があるんだろう? まだ試していないが、目的地にあっという間についてしまうとかいう話だ」
そして未だにこの魔術に打ち勝った迷いの魔術は存在しない。
「うん。そうだよ」少女は自分のことのように誇らしげに頷く。「楽しい気持ちになってね。笑うと良いの。そしたらどんな迷いの呪いも打ち破れるんだよ」
「なら泣き止むといい。そうすれば家に帰れる」アイソポトーの言葉に対し、少女はやはり首を振る。アイソポトーは酒瓶を取り出す。今度は琥珀色の液体だ。「飲むか? 泣き止める」
「子供はお酒飲んじゃ駄目なんだよ。それにまだ帰りたくない」少女は瞳を潤ませながら答えた。
代わりにアイソポトーが酒を呷り、雷のように強烈な熱を持った液体を流し込む。路地に満ちた寒気が恨めし気に遠ざかっていく。
「だが怖いんだろう? そんなに泣いて」
そして迷子になり、ますます怖い思いをする。まるで蟻地獄のように迷い込んだ先には何が待っているのだろうか、とアイソポトーは路地の薄暗闇を見つめて考える。
「お姉ちゃんがいなくなったの。だから泣いてたの。怖いんじゃないよ」
巨大な犬から一定の距離を保って吠え掛かる仔犬を見守るような気持ちでアイソポトーは頷く。
「ああ、そうだったか。すまんな。それじゃあまずはお姉ちゃんを見つけてなくてはならんわけだ」少女はようやく縦に首を振る。「よし一緒に探してやろう。そんな窪みからは出ておいで」
アイソポトーの差し伸べた手を少女は掴む。首飾りの、群青色の石が揺れる。
「おじさんは誰?」
「アイソポトー。酔いと温もりをこよなく愛する男だ。お前さんは?」
「格別に清らかな娘。ネドって呼んでる。お父さんとお母さんがね」
「ならば私もお前さんのお父さんとお母さんに倣おう。よろしくな、ネド」
二人は星々の囀りさえ届かない静かな街を行く。アイソポトーは脇にたばさんだ酒瓶を呷りながら、ネドマリアは姉の武勇伝を自慢しながら。時折誤って迷い込んだ者や泣き上戸の酔っ払いに出くわす以外には誰も見かけない。そんな彼らも次の瞬間にはどこかへ消え失せる。二人は次々に多種多様な迷いの呪いに絡めとられ、景色は次々と変じていく。
気が付けば塔の上でワーズメーズの全景を眺めており、気が付けば橋の下で煉瓦の数を数えている。奇妙奇天烈でただ人を揶揄うためだけに存在するかのような魔法を相手にしていると、道を歩くだけで妙に疲弊する。
主のいない人影だけが行き交う空中回廊で二人は休息する。囁き声も聞こえるが何と言っているかは分からない。アイソポトーはネドマリアの手をしっかりと握り、特に魔術の施されていない普通の長椅子に腰掛ける。
「見つからないな。お前さんのお姉ちゃん。もしかしたら私らはお姉ちゃんよりもより深みへ潜ってしまったのかもしれんな」ネドマリアは涙を流しつつもよく分からない様子でアイソポトーを見上げ、見つめる。「つまりだ。行き過ぎたのかもしれん。戻りたいところだが、まだ泣き止めそうにないか?」
「悲しいから泣いてるから、まだ悲しいから泣いてる」
「そうか」
果たして手をつないだまま片方だけが迷いの呪いを振りほどいた場合はどうなるのか、分からないが試して失敗するわけにもいかない。そうなればお姉ちゃんどころかネドマリアとも永遠に再会できないかもしれない。
「良い酒があるんだ」とアイソポトーは何気なく切り出す。「楽しい気分になれる。そのまま寝れば良い夢が見れる」
「駄目だよ」とネドマリアは忠義に篤い騎士の如く頑なに答える。「子供にお酒は毒だって言ってた」
「薄めればいい。ほんの少しの酒精でも十分に効果を発揮する魔法の酒だからな。瞬く間もなく瞼が落ちて、幸福な夢を見る。そして目覚めた時には頭の中が洗ったみたいに綺麗さっぱりだ。ついでに大いなる迷わずの魔法の力でお家に帰れる。まずはお父さんとお母さんにこのことを伝えるべきだろう」
「駄目。お酒は飲まない。それに大人だって。お酒を飲んだら別人みたい。怖い」
ネドマリアがむず痒そうに手を動かしたのでしっかりと握り返す。
「それはそうかもしれんな。深入りは禁物だ」
「どうして飲むの?」
ネドマリアの好奇心の眼差しから、ワーズメーズの不思議な色合いに光る夜景へと視線を移す。
「この街と同じだ。ほどほどにしておけば楽しいもんだ。暮らすのは大変そうだが」
「迷うこと?」
「そして惑うこと。避けようのない正しさから逃れたい時があるものだ。勿論良い味も取り揃えてるぞ」そう言ってアイソポトーは厚地の衣を開くと、中には沢山の瓶が吊り下げられている。どれも最高級の美酒であることは言を俟たない。
その多彩な液体が蠱惑的に揺れ、芳醇な香りの漂いにネドマリアは魅せられたようだったが、直ぐに顔を反らした。
「分かんない」
アイソポトーはくつくつと忍び笑いを漏らす。
「それでいい。ネドマリアはネドマリアの、ネドマリアを魅了するものを大事にすればいい。そのことを考えれば自然と笑顔になるようなものをな」
ネドマリアは少し考えるそぶりをするが、やはり悲し気に唇を結んで俯く。
「お姉ちゃん。まだお姉ちゃん、見つけてない」
ネドマリアは再び立ち上がり、今にも駆け出しそうなほどにアイソポトーの手を引っ張る。
「お姉ちゃんが好きなんだなあ」
アイソポトーはまるで孫でも慈しむように目を細めて少女を見つめる。
「うん。お姉ちゃんは強くて、格好良くて、私が迷った時も見つけてくれて、すごく褒めてくれて、お母さんとお父さんもすごく悲しんで、私もお姉ちゃんみたいになりたいけど全然全然だから……」
ネドマリアの声がどんどん高まっていき、果てには決壊して再び涙が溢れた。しかしアイソポトーは慰めることなく、涙を流すままにさせた。それよりも一つの疑問が鎌首を擡げた。
「ネド。お姉ちゃんがいなくなったのはいつだ?」
「二歳の時、私が」
「今は何歳なんだ?」
「六歳」
「そうか。四年前ではもう……」
ネドマリアと目が合い、いらないことを口走ったことに気づく。
姉を失った少女はアイソポトーの手を振りほどき、ワーズメーズの街を駆けていく。後を追わねばと立ち上がった瞬間にはもうその姿を消していた。
「丁度いい窪みを見つけるのが得意だな」
アイソポトーは再び路地の一角で壁に穿たれた窪みを覗き込み、ネドマリアを見出した。
しかし出会った場所とは大きく様相が変わっている。異様な雰囲気だ。まるで誰にも顧みられず数千年を経て神さびた霊廟にでも迷い込んだかのようだ。空は星も雲もない暗闇で、一方で地上の街そのものがうっすらと光を放っている。誰もいないが、誰もがいるかのような気配が漂っており、空気が凍り付いたかのように静かなのに、ずっと耳元で何者かが囁いているかのようだ。もはやここがワーズメーズかどうかも定かではない。
「どうして分かったの? ここにいるって。私にも分かんないのに」
「賭けだがな。迷いの呪いに絡めとられればとられるほど、差異が少なくなり、位置が近づいていくのでは、とな」ネドマリアが首を傾げるのでアイソポトーは言葉を選ぶ。「つまりお互いに蟻地獄の対岸から落ちて行けばいずれすり鉢の底で出会うという寸法だ」
「じゃあ、ここは……」
「迷いの呪いの底の底、かもしれんな」
どこか遠くで地響きのような唸り声が聞こえる。姿は見えないが巨大な足音や、何か巨大な構造物が崩れるような音も。長居して良さそうな場所ではないらしい。
はっとしてネドマリアが立ち上がる。星も篝火もないのに浮かび上がるように光を放つ街を眺める。
「それじゃあここに、お姉ちゃんもここに!」
駆けだそうとするネドマリアの手を取る。
「一つ所に四年も留まりはしないだろう」
「でも! でも!」
「さっきのは失言だったが、何も希望が無いというわけではない。ただ、迷子に迷子は見つけられないというだけだ」
必死に振りほどこうとするネドマリアの手をしっかりと握り、もう一方の手で小さな口に酒瓶を押し当てる。するとネドマリアの頬が赤らみ、微かに笑みを浮かべた。
「さあ、家に帰ろう。お父さんとお母さんが待っているだろう。酒気はすぐに抜けるからな」
ネドマリアは良い夢でも見ているかのように幸福そうに歩き出し、すぐにアイソポトーの視界から消えた。
「さて、少しばかり探してみるかな。どうか見つかってくれるなよ、お姉ちゃん」