全身がばらばらになりそうなほど強く揺すられて、擁護者は覚醒し、飛び起きる。それでもなおナズマは揺らされ続ける。
「なんだ!? おい! やめてくれ!」逆に海へと引っ張り込まれかねない大物がかかった時のようにナズマは悲鳴をあげた。
寝ぼけ眼の向こうの何者かが両肩を鷲掴みにして揺すっていることに気づき、押しのけるように抵抗する。
ようやく揺するのをやめたその男は無二の友人、波間だ。ナズマと変わらない粗衣は同様にずぶ濡れだ。梟のように真ん丸な顔の真ん丸な二つの目でナズマを覗き込んでいる。
「良かった。生きていたな。死んじまってるのかと思ったんだ」
その言葉でようやくナズマは自身の遭遇した災難を思い出した。漁に出たものの不漁続きの日々が終わる気配は無く、粘り続けたために嵐の接近に気づくのが遅れてしまったのだった。気が付いた頃には獣のように唸りを上げる黒雲が天を覆っていた。暴れ川に舞い落ちた木の葉のように翻弄される漁船にしがみつくも、海の差し向けた巨大な掌の如き大波に船縁から叩き落とされ、暗い海に呑み込まれてしまったのが思い出した限りの最後の記憶だ。
しかし今は大波荒れ狂う海の上ではなく確固とした大地の上にいる。嵐雲に覆われて月影もない暗闇の夜は過ぎ去って明々とした太陽の一日の初めの祝福を賜っている。何よりまだ自分は生きている。それらを確認し、ナズマは肺の奥から深々と安堵の溜息をつく。腕の擦り傷にじわりと血が滲み、濃い赤が鮮やかに浮かび上がっている。確かに生きているのだ。ほとんど諦めていた生に何とかしがみつけた。
ナズマは未だ恐怖の冷たさが染み込んで震える手を合わせ、慈悲を給うた大海の神々に感謝の祈りを捧げた。そして再び漁師仲間でもある友人ミストルに目を向ける。
「他の皆は?」
ナズマの問いに、大きな捩くれた流木に腰掛けたミストルは首を傾ける。
「さあな。オレたちだけだ。他の皆がどうなったか、オレに分かると思うか?」
「そうか」ナズマは砂地の感触を確かめるように立ち上がり、見覚えのない砂浜、そして嵐の過ぎ去った海を眺める。海はまるで昨夜の狂乱など忘れてしまったかのように平穏だ。「同じ嵐に遭って、海に落ちて同じ島に流れ着いたんだ。他の皆は船から落ちなかったんだよ」根拠は薄いが、ナズマは断言した。「それで、どこの島だい? ここは」
ナズマは流れ着いた島の方を振り返り、眺め渡す。砂浜にはミストルの足跡が行き来している。そして砂浜の向こうには一面の小麦畑が海風を受けて黄金の波を打っている。
「本当にどこの島なんだ?」ナズマは助けを求めるように呟く。「見覚えがないね。相当遠くに流されたんだ。だけど人が住んでるなら勿怪の幸いだ」
「いや、人の気配はないようだ」
ナズマはミストルに不審の目を向ける。
「畑が人の気配じゃなくて何だっていうんだよ」
「いや、人を見かけていないって意味だ。まあ、今のところ、だな?」
「そうさ。無人島に畑があるものか」
しかしミストルの言う通り、人影はない。どころか、家々の屋根や小屋さえも見当たらない。砂浜には色々と流れ着いているようだが、船も漁師小屋もない。
「あの山の向こうに村があるのさ」畑の縁でナズマは、島の中心にある小高いなだらかな山を指さした。「あるいはあっちの緑の木立に隠れているのかも。さあ、行って助けを求めよう。それにこれだけの豊作だ。食べ物を分けてもらえるに違いない」
しかし畑道や畦道を含め、およそ道というものが見当たらなかった。他所の畑に踏み入る姿を見られるわけにもいかない。ナズマとミストルは海岸を、漂流物の点在する砂浜を辿って島を回り込むことにする。
「それにしても変わった畑だね」ナズマは砂浜から見える限りの畑を眺めながら呟く。
「そうか? どう変わっているんだ?」
「そうさ。お前だってこんな畑は見たことがないはずだよ。畑ってのは縦横に区切ってあるものだ。それがここではどうだい。ただ、ただただ広がっている。あの実りだ。まさか野生種ってことはないはずだけど」
「そういうものか。そう言われればそうかもしれない。つまりこの畑を耕した者はその必要がなかったということだな?」
「そのようなことで揉めることのない人々が住んでいる、ということなら良いんだけど。おい、そう急ぐな。いやに元気じゃないか。ここ数日間、まともに魚が獲れなかったっていうのに」
「だってほら、あれを見てくれ。とても美味しそうじゃないか?」ミストルの指し示す先には緑の木立が海風に吹かれ、歓迎するように揺れている。
緑だけではない。木立ちはまるで夢のような彩りを装っている。幻想の帳に隠された妖精の王国の森然たる果樹園でもこれほど鮮麗な光景はお目にかかれないだろう。鮮やかな紫の房がたわわに実り、夕陽のような赤い宝石が地面を飾っている。橙色の果実は潮風にも負けずに甘酸っぱい濃厚な芳香を振りまいていた。
「果物まで!」ナズマは駆けだしそうになるのを堪えて、豊かな果樹園を眺める。「鈴なりの林檎に梨、はち切れんばかりの甜瓜。向こうには橄欖もあるね。手広くやるにしてもほどがあるだろうに」
「桃に李もあるぞ。これは凄いことなんだよな?」とミストルに尋ねられ、ナズマは請け合う。
「そりゃもちろん! ……まあ、ボクたち貧乏漁師は門外漢かもしれないけど、それくらい分かるさ。見ろよ。あの色、あの艶、あの大きさ。一生手の届くことのない代物だけど上等な品だってことくらい分かる」
だけど、とナズマの心の中の冷静な部分が理性に対して警告を発する。黄金色の小麦畑も極彩色の果樹園も普通ではない。ならば、この島は普通の島ではなく、あの山の向こうにある村もまた普通ではないのではないか。
そしてナズマは改めてあることに気が付く。今や目の前にまで迫っていた山はまるごと段々畑になっていて、そこにも小麦らしき穂が風に揺らめいている。いよいよ異常だ。もはや農作に対して貪欲とさえ言える。はたしてこのまま人の住む集落を探して、見つけてしまってもよいのだろうか。本当に人が住んでいるのだろうか。踵を返して、漂流物の端材を集めて筏を作って脱出するべきではないだろうか。
ナズマが悩んでいるとミストルが何か言いたげに見つめていることに気づく。
「どうかした?」
「いや、果物をさ。食べてみないか?」
「何を言ってるんだ!」ナズマはミストルを追い越して砂浜を行く。「ボクはそこまで落ちぶれちゃいないぞ。勿論綺麗事を言うつもりもないが、少なくともまずは手を汚さずにやれることをやるつもりだよ。お前も今しばらくはボクの友人でいてくれよな」
「分かった、分かったよ」ミストルが重い足音を砂に吸わせて追ってくる。「だがオレは喰っても構わないと思う。無人島だったなら、つまりこれは神の思し召しみたいなものだ。そうだろ?」
「無人島なわけがあるか」
しかし山の裏側に集落などなかった。島を残り半周するまでもなくおよそ文明らしきものがないことは分かった。内陸部に隠れられそうな場所もない。全てが畑だ。小麦や果物の他にも多種多様な野菜畑まで見つけてしまった。
流れ着いた場所へ戻る前に足を止める。複雑な海岸線の岩場へと行き当たったからだ。もしもここに流れ着いていたならば体はずたずたになっただろうと思い、ナズマはぞっとする。
「もう日が傾いてきたな」ミストルが今気づいたかのように指摘する「足元も暗いし、岩場は避けて畑を突っ切らないか?」
「そうだね。せっかく拾った命を落とすわけにもいかない」
そうして二人は島を一周し、三人目はいないことを確認したのだった。
流れ着き、目覚めた場所にあった捩くれた大きな流木に腰掛け、日の傾いた砂浜でナズマは頭を抱える。
無人島なわけがない。野生種の繁栄した作物の王国だとか、神様の思し召しなどとも考えない。
例えば、謎の漂流者を警戒して山を盾に身を隠している、だとか。別の島に住む者たちが畑にだけ使っている、だとか。それらしいことを考えてみたが、どちらにしても奇妙であることに変わりはない。家屋や桟橋どころか、畑以外の人工物すら見つけられなかったのだ。
ナズマは妙に辺りが静かなことに気づく。いや、ずっと静かだったのだ。ただ、風と波だけが代わる代わる古くから伝わる歌をうたっている。ここにはどのような港にも飛び交っているはずの海鳥がいない。魚群を報告する鳴き声も嵐を警告する鳴き声も聞こえない。考えてみれば、目覚めてこの方、ミストル以外の動物を見ていない。途端に得体が知れないなりに賑やかに思えた島が荒野の如く寥々と感じ、底知れぬ不気味さにナズマの肌が粟立つ。急激に不安感が膨らみ、まだ見ぬ何者かに一方的に見られているかのような恐れを抱く。
どれくらいそうしていたのか。ナズマの恐怖を掻き消すような暢気なミストルの呼びかけに気づく。
「なあ、腹は減っていないのか?」とミストルが分かり切った事をきく。
「まだ言うのか。減ってるに決まってる。お前は喰いたきゃ喰えばいい。だけど……」この奇妙な島に隠された秘密を暴きたい、というのは言い訳だ。結局のところ、ナズマは空腹に抗えなかったのだ。「分かったよ。食べよう。もしこの島の畑の主である何者かが隠れて見ているのならば、盗人を見過ごしはしないだろう。出てきたところを、……出てきたところで、……その時は謝って、事情を説明して、慈悲を乞おう」
「じゃあ何を食べる? やはり小麦か」ミストルが真面目な顔で言うのでナズマも真面目な顔で返す。
「良い考えだね。穀棹があったならもっと良い考えだった」
人の営みがあったならばぼちぼち炊事の煙がそちこちで上り始める頃、ナズマは罪の意識を胸に抱えつつ、無人島の畑を巡る。
色々な芋に人参や蕪があった。どれもこれも肥え太っていて、土に汚れたその姿を見ただけで温かい汁物に浮かぶ姿と豊かな香りを想起させる。畑に並ぶ瑞々しい石柏、濃く色づいた萵苣、蕾の密集した芽花椰菜。二人は野菜と果物を大いに盗んだ。さっきまで及び腰だったナズマは特に大胆に、あるいは開き直ったかのように様々な作物をせしめたのだった。
そうして二人は何とか料理らしきものを作った。漂流物には大いに助けられた。鍋になりそうな兜や、刃物が幾つか流れ着いており、錆を取るのに時間はかかったが、調理の真似事ができた。御守りに持っていた火打石で、無人島の最初の夜の火を作り、焼いたり、炙ったり、海水で煮たりした。
料理を作っている間に、日が沈む。島を覆う小麦畑は黄金色の衣を脱ぎ捨てたかと思うと赤く燃え、濃い藍の衣装に星影を散らした。海は黒く染まり、地上の者どもにとっての死の気配を強めた。
ナズマとミストルは焚火を囲って憩い、少しばかり罪悪感の香り漂う料理を口にする。とても美味しい料理とは言い難かったが、食材が最高級であることは疑いの余地がない。特に果物は絶品だった。柔らかで甘やかで香り豊かな果肉と果汁が喉を通るたびに舌を歓ばせ、魂まで震わせる。
「ああ、美味い。口福だ」少なくとも食材に関しては人生で最も豪勢な食事だったと自信をもって言える。「これを作ったのが何者であるにせよ、賞美に値するよ。お前もそう思うだろう?」
「ああ、そうだな。そりゃ良かった」
なぜか満足そうな様子のミストルを見てナズマはこっそり笑う。大いに食べて、食べ尽くしてしまうと得体の知れない島の恵みに感謝しつつ、今更になってありうべき返報を想像して身を震わせる。
「大丈夫か?」ミストルがナズマの顔を覗き込んでいる。「顔が生っ白いぞ。さっき食った蕪みたいだ」
「お前は不安にならないのか。この不自然な島で、盗みを働いてしまったんだ。きっと報いがある」
「もう吹っ切れたのかと思った」ミストルはよく火を通した芋にかぶりつきながら答える。「その時は謝ればいい。悪いように考え過ぎなんだ。もしかしたらこれを作った者も誰かに食べさせたがっているかもしれないだろう?」
「都合の良い妄想じゃないか」
「そうだ。どっちにしたって妄想だ。気楽に行こうじゃないか。飢え死ぬつもりはないんだろう?」
「もちろん。もちろんそうだ」
不思議なことに見舞われて今の今まで実感が薄れていたが、現状二人は遭難者なのだ。四の五の言っている場合ではなかった。
ナズマは不安を押し殺しつつ、その夜は星の下で眠りに就いた。
一生に一度あるかないかの不幸に見舞われたナズマだが、しかしその翌朝不幸を打ち消すほどの幸運に浴することとなった。
蝙蝠が洞へと帰り、鳥が枝から飛び立つ頃、昨日は回避した岩場を念のために見回ったところ、まさにナズマと共に海に呑まれたはずの漁船が島に流れ着いていたのだった。船は難破したわけではなく、海の神の気まぐれな采配に弄ばれて波間を漂ったのだろうが、最後には主の元へと返されたのだった。
ナズマは大いに喜んで船を点検し、まるで嵐などなかったかのように無傷であることを知ると改めて気ままな海の神々に感謝を捧げた。
一方で微かな懸念も抱いた。複雑な海岸線の岩場の奥まったところに、まるで隠されていたようにも思えたのだ。何者かがナズマとミストルが目覚める前に船を隠したのではないか。根拠はやはり薄いが、島自体の奇妙さが不安感を煽った。
とはいえ、船を取り戻すに至っても、誰にも邪魔立てされなかった。いずれにせよ、さっさとおさらばするに限るのだ。
ミストルは少し不満げだった。ナズマからすれば正気の沙汰とは思えないが、だが確かに人を引き付けるだけの魅力がこの島の作物にはあった。
「冗談はほどほどにしておけよ」とナズマは釘をさす。「お前がたらふく食っている間に嫁と倅が飢え死んでいいのか」
「それは、分かってる。だが……、そうだ。嫁と倅にも食べさせたいな。土産を積んでいこう。いいだろう?」
「好きにすればいいよ。どちらにしても何もなしで漂流するつもりはない」
あくまで生き残るための食べ物だが、余ったまま帰還できたなら残りは家族の分の美味なる土産だ。
沢山の荷物を船に積み込み、二人もまた船に乗り込んで櫂を繰って島を離れる。
「すまん。急に眠くなってきた」とミストルが早速林檎をかじりながら呟いた。
「昨夜は眠れなかったのかい? まあ、しばらく休めばいい。嵐が来たら起こすから」
「嵐はもう勘弁して欲しいな」
ミストルは一口かじっただけの林檎を島の方へと放り捨て、倒れるように眠り込んだ。その一連の行動にナズマは違和感を覚えたが、それだけだった。
こうして不思議な島を後にした二人だが、不思議な出来事は最後にもう一度起こった。
昨夜眺めた星の位置でおおよその方向に向けて漕ぎ出した船だが、まだ帰郷は叶っていなかった。海の騒めきが新たな夜の新たな星の瞬きに融和し始めた頃、ミストルが目を覚ました。
「おはよう。よく眠れたようだね」
「ああ、ん? 気のせいか。船から落ちた気がしたんだが」
「とんだ悪夢だね」
「無事ならよかった」ミストルが海を見渡す。「みんなは? 親船は? ここはどこだ?」
「みんな? 何の話だ?」ナズマは寝ぼけた様子のミストルを揶揄う。「お前も船を漕ぐのを手伝え」
「オレたちは嵐に遭っただろう? どこまで流されたんだ?」
船の上で眠りから目覚めたミストルは嵐に遭った後の出来事を何一つ覚えていなかった。ずっと気を失っていた、の一点張りで、むしろおかしな体験を語るナズマの頭を疑われることになった。だが大量の果物と野菜、そしてその味を知って、ナズマの言葉は嘘ではないとミストルも信じた。
一体あの島で何が起きていたのか、二人の漁師は知る由もない。
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