第五章「隙間の奥へ」
その夜、アパートはいつもより重く、静かだった。
悠真は布団に横たわることもなく、壁の隙間の前に立っていた。
カサ……カサ……
呼吸のような音が、心臓の鼓動と同期する。逃げる理由も、止める力も、もう残っていなかった。
「来て……ずっと待ってたよ」
囁きは直接耳元に響き、恐怖は奇妙な安心感に変わる。
悠真は迷うことなく、手を壁の割れ目に伸ばした。ひんやりとした感触が指先に伝わる。
その瞬間、視界が揺れ、部屋の壁が透け、奥に暗い廊下が現れた。
奥の闇の中、薄暗い人影が悠真を見つめる。
かつて前住人が立っていたのだろうか――影はゆっくりと手を差し伸べ、囁いた。
「ずっと、ここにいる……一緒に」
悠真は全身の力が抜けるような感覚に襲われた。恐怖は消え、ただ静かな安堵だけが残る。
目を閉じると、かつての孤独や会社での疲労、日常の些細な不安がすべて遠くに溶けていった。
その瞬間、アパートの現実世界では異変が起きていた。
山本管理人が部屋を訪れると、悠真の部屋は鍵がかかっており、壁はいつもより硬く、隙間はわずかに閉じかけていた。
カサ……という音だけが微かに残り、室内は静まり返っている。
美咲は翌朝、悠真の部屋の前で立ち尽くす。
「悠真さん……どこに……?」
部屋の中には荷物だけが残り、壁の割れ目は見た目には普通の壁に戻っていた。
しかし微かに、誰かが見ているような視線を感じる。
カサ……カサ……
隙間の奥から、低く囁く声が聞こえた。
「……まだ、見てるよ」
悠真はもう戻らない。
前住人たちと同じく、静かに、しかし確かに“向こう側”へ吸い込まれたのだ。
隙間は今日も静かに呼吸しながら、新しい“視線”を待っている。