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#溺愛
#社会人BL
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「───お前のような出来損ない、我が家の恥だ。せめて死に花くらい咲かせてこい」
突きつけられたのは、縁談という名の死刑宣告だった。
三月、季節外れのなごり雪が舞う肌寒い朝のこと。冷たい風が
五條家の重厚な門をくぐり抜け、私の頬を容赦なく叩く。
私の名は、千代。
異能の家系として名高い五條家に生まれながら
十五歳になっても指先一つ灯せない「無能」として
十年間もの歳月を薄暗い蔵の中で過ごしてきた。
日の光を浴びることも、温かい食事を囲むことも許されず、ただ家門の影として存在を消してきたのだ。
「お姉様、お可哀想に。お相手はあの『人斬り伯爵』こと、久遠様ですわ。戦地で数多の首を跳ね、その身に浴びた返り血の呪いで、正気を失っているという……」
義母の連れ子である妹の美夜が、絹の扇の影でくすくすと笑った。
その瞳には、私への同情など微塵もない。
ただ、自分が行かずに済んだという安堵と、目障りな姉が消えることへの愉悦だけが透けて見えた。
本来なら、異能の才に溢れる彼女に届いた縁談だった。
けれど、嫁いだ娘たちが次々と発狂するか
行方不明になると噂される不吉な久遠伯爵家へ、大事な娘をやるわけにはいかない。
だから、代わりが必要だったのだ。
死んでも誰も困らず、むしろ戸籍から消えてくれた方が都合がいい私という「無能」の身代わりが。
「……承知いたしました」
乾いた声で、私は短く答えた。
逆らう術など持っていなかった。
擦り切れた木綿の着物一枚。
それが私の全財産だった。
迎えの馬車に乗り込む際も、振り返ることはしなかった。
見送る家族の顔には、厄介払いを終えた晴れやかささえ浮かんでいたから。
手荷物など何一つない。
この命さえ、あの方に差し出せばすべてが終わるのだ。
帝都の喧騒を抜け、馬車がたどり着いたのは、鬱蒼とした森の奥に聳え立つ煉瓦造りの屋敷だった。
鉄製の重厚な扉が、重苦しい音を立てて開く。
そこには、春の訪れを拒絶するような冷たい静寂が満ちていた。
「……主がお待ちだ。こちらへ」
無愛想な従者に案内され、長く暗い廊下を進む。
足音が板間に響くたび、心臓が脈打つのを感じた。
通されたのは、月明かりが窓から真っ直ぐに差し込む、広い広間だった。
そこに、彼はいた。
軍服を乱雑に脱ぎ捨て、漆黒の着流しを纏った男。
久遠。
その瞳は鋭く、月光を反射して怪しく光っている。
まるで獲物の喉元を狙う獣のような眼光。
噂に違わず、彼の周りにはどす黒い「澱み」のような冷たい気が渦巻き
呼吸をするのも困難なほどの圧迫感を放っていた。
(ああ、やっぱり…私はここで、この方に切り捨てられるのだわ)
最期の瞬間が来た。
そう確信した私は、震える足で畳に膝をつき、深く頭を下げた。
板の冷たさが膝を通して伝わってくる。
「五條家が娘、千代と申します。……不束者ですが、どうぞ、お好きなようになさってください」
殺されるなら、せめて一突きで。
身を強張らせ、瞳を閉じてその衝撃を待つ。
しかし、訪れたのは冷たい刃ではなく、低く、けれど震えるような声だった。
「……やっと、会えた」
「え……?」
顔を上げる暇もなかった。
次の瞬間、私の体は強引なまでの力で抱き寄せられていた。
視界が反転し、鼻をくすぐったのは、気品ある白檀の香りと、微かに混じる硝煙の匂い。
久遠様の掌は、驚くほど熱かった。
その熱が、私の痩せ細った肩を包み込み、芯まで冷え切っていた体へ流れ込んでくる。
「この光だ…ずっと、俺を呼んでいたのは。この暗闇の中で、君だけが輝いて見えた」
彼の手が、私の顎をそっと持ち上げる。
拒む間もなく、至近距離でその瞳とぶつかった。
冷酷だと恐れられていたその瞳は、今
呪いの澱みを溶かすほどの熱烈な情熱を孕んで、私という存在の奥底を見つめている。
「千代…と言ったか。よく来てくれた。これからは、お前を貶めるものは何一つない。この屋敷のすべて、そして俺のすべてがお前のものだ」
「……あ、あの、私、無能で……ただの身代わりで…来ただけで…そんなにもてなしてもらう程の人間では…っ」
信じがたい言葉の奔流に、私は必死に声を絞り出した。
けれど、彼は私の唇を塞ぐように、その大きな手で頬を包み込んだ。
「…そんな卑屈な言葉で自分を汚すな」
久遠様は、霜焼けで赤くなった私の凍えた指先を愛おしそうに包み込み
慈しむように熱い吐息を吹きかけた。
「お前は無能などではない。この地獄のような日々から、俺の魂を救い出せる唯一の女だ」
窓の外では、風に舞った桜の花びらが、パチパチと音を立てて硝子を叩いている。
死を覚悟して訪れたこの場所で、私は生まれて初めて
世界から「生きていい」と全肯定されたような気がした。
視界が、涙で滲んでいく。
冷酷な軍神と、無能の身代わり花嫁。
最悪の出会いから始まるはずだったこの夜は
後に帝都を揺るがす物語の、甘く鮮やかな序章に過ぎなかったのである。