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菫。
その名が響く。
風の中で。
花びらの中で。
何百年も前から。
ずっと待っていたかのように。
静かに。
優しく。
呼ばれた。
佐衛門は動けなかった。
胸の奥が痛む。
知らないはずだ。
知らない名前だ。
だが。
その名を聞くたびに。
何かを失ったような気持ちになる。
男は微笑む。
優しい目だった。
旅僧は気付く。
この男は。
佐衛門を見ていない。
菫を見ている。
今ここにいる旅人ではなく。
昔そこにいた誰かを。
「約束を覚えているか」
再び問う。
静かな声。
佐衛門は答えない。
答えられない。
そして。
正直に言った。
「知らん」
静寂。
男は怒らない。
悲しまない。
ただ。
少しだけ寂しそうに笑った。
「そうか」
風が吹く。
「なら」
空を見る。
月の向こうを。
何かを確かめるように。
「まだ守れている」
旅僧が顔を上げる。
「何をです」
MOMO🩲
ひな
104
けだま15号🍓🐾໊
6,356
夕鳴
128
男は答えない。
代わりに。
佐衛門へ近付く。
一歩。
また一歩。
その身体は薄い。
今にも消えそうだ。
だが。
瞳だけは強かった。
「覚えるな」
静寂。
旅僧が固まる。
花守も。
鐘撞きも。
墓守も。
皆、動きを止める。
男は続ける。
「今はまだ」
風が吹く。
「思い出すな」
佐衛門が眉をひそめる。
「何故だ」
男は笑った。
どこか。
お師さんに似た笑い方だった。
「お前は昔からそうだ」
静寂。
「全部背負おうとする」
風が吹く。
「だから駄目だ」
その言葉と共に。
佐衛門の頭へ。
一つの記憶が流れ込む。
夜。
焚き火。
若い男。
今、目の前にいる男。
そして。
一人の少女。
まだ幼い。
だが。
真っ直ぐな目。
『私がやる』
少女が言う。
『皆を守る』
男が苦笑する。
『馬鹿だな』
『お前は』
焚き火が揺れる。
『一人じゃ無理だ』
少女は納得していない。
不満そうな顔。
そして。
『じゃあ手伝え』
静寂。
男が吹き出す。
『命令か』
『お願いだ』
少女は言い直す。
少しだけ照れながら。
その光景が。
あまりにも自然で。
あまりにも懐かしくて。
佐衛門の胸が締め付けられる。
景色が消える。
呼吸が荒い。
花守が不安そうに見ている。
「お姉ちゃん」
小さな声。
佐衛門は返事をしない。
出来ない。
その時だった。
空が震える。
ゴォォォォォ――。
世界が軋む。
月の輪郭が歪む。
旅僧が息を呑む。
巨大な瞳。
今までで最も大きく開いている。
そして。
初めて。
言葉が聞こえた。
頭の中ではない。
世界そのものへ。
直接。
『見つけた』
静寂。
全員の顔色が変わる。
男も。
墓守も。
鐘撞きも。
お師さんも。
花守も。
全員が凍り付く。
『見つけた』
もう一度。
今度は近い。
あまりにも近い。
旅僧の膝が震える。
空の向こうにいるはずなのに。
すぐ背後にいるような距離。
男が舌打ちした。
初めてだった。
穏やかな男が。
怒りを見せたのは。
「早すぎる」
風が吹く。
その身体がさらに薄くなる。
男は佐衛門を見る。
いや。
菫を見る。
そして。
最後の言葉を残した。
「花は」
静寂。
「誰かのために咲くな」
旅僧が息を呑む。
意味が分からない。
だが。
佐衛門だけは。
何故か泣きそうになった。
「自分のために咲け」
風が吹く。
花びらが舞う。
男の身体が崩れていく。
光となって。
花となって。
そして。
最後に。
微笑んだ。
「今度は」
静かな声。
「幸せになれ」
その瞬間。
男は消えた。
桜の下に。
一輪の紫の花だけを残して。
紫色の。
小さな花。
風に揺れている。
まるで。
最初からそこに咲いていたかのように。
静かに。
ただ静かに。
旅僧は言葉を失っていた。
誰も喋らない。
花守は桜の下へ座り込んでいる。
両手で、紫の花を包むようにして。
泣いていた。
声を上げることもなく。
ただ。
静かに。
佐衛門は、その姿を見ている。
そして。
紫の花へ目を向けた。
胸の奥が痛い。
だが。
何故なのかは分からない。
「……菫」
初めて。
自分の口から、その名が零れた。
旅僧が顔を上げる。
お師さんも。
鐘撞きも。
墓守も。
誰も何も言わない。
佐衛門は自分の声を聞くように。
もう一度。
小さく呟いた。
「菫……」
それでも。
記憶は戻らない。
ただ。
胸の奥に。
一輪の花だけが残っていた。
風が吹く。
紫の花が揺れる。
その花は。
誰かのためでもなく。
誰かを待つためでもなく。
ただ。
そこに咲いていた。
そして。
佐衛門は歩き出す。
振り返らない。
花守も。
墓守も。
鐘撞きも。
お師さんも。
それぞれの想いを抱えたまま。
その背中を追った。
だが。
村を出る直前。
佐衛門は一度だけ振り返った。
桜の下。
一輪の紫の花。
そして。
その向こう。
黒く染まった花々の中に。
僅かに残った白い花。
佐衛門は目を細めた。
「……残ったな」
誰に言うでもなく。
小さく呟く。
風が吹く。
白い花が揺れる。
そして。
どこか遠くで。
鐘が鳴った。
ゴォォォォン――。
旅僧が振り返る。
だが。
佐衛門はもう歩き出していた。
誰も。
その背中を呼び止めなかった。
紫の花だけが。
静かに。
その場所に残っていた。
コメント
1件
うわあああ第十九話…っ!😭💜💜 「菫」って名前、めっちゃエモすぎる…! あの男の人の「覚えるな」「思い出すな」がもう切なくて切なくて… 最後の「自分のために咲け」「今度は幸せになれ」が胸に刺さった…。 花守ちゃんが紫の花を包んで泣くシーン、一緒に泣きそうになったよ〜! 記憶は戻らないけど、心の奥に花が残ってるっていう表現、素敵すぎる…! 次の鐘の音、何を告げてるんだろう…次話が待ちきれない!🌸