湯気が、ゆっくりと立ち上がっていた。
マグカップから漂う、少し薄いコーヒーの匂い。
それを、彼は両手で包むように持っている。
「…落ち着きましたか?」
私がそう聞くと、
彼は少しだけ考えてから頷いた。
「はい。…ありがとうございます」
丁寧過ぎるほど丁寧な言葉遣い。
それが、逆に現実感を薄くしていた。
(どうしよう)
頭の中で、同じ言葉が何度も回る。
警察。
病院。
事務所。
正しい選択肢は、ちゃんと浮かんでいる。
浮かんでいるのに、どれも今すぐ選べない。
目の前の彼は、
“助けを必要としている人”の顔をしていた。
そして ―
その顔を、私は知っている。
(推し、なんだよ)
心の奥にしまい込んでいた言葉が、
じわじわと浮かび上がる。
「…あの」
彼が口を開いた。
「僕、何か…悪い事、しましたか?」
「え?」
「だから…記憶がなくなるほどの事を」
その問いに、胸がきゅっと締まる。
「…してないと思います。
少なくとも、今のところは」
「…そっか」
小さく、安堵の息。
その様子が、
あまりにも“普通”で。
(だめだ)
(この人、今、完全に私を頼ってる)
「…病院、行きませんか」
声に出した瞬間、
自分の心臓が早くなるのが分かった。
「頭を打ったとか、
何か原因があるかもしれないし」
理屈は、正しい。
正し過ぎるくらい。
でも彼は、
マグカップを握る指に、少し力を込めた。
「…怖いです」
「…」
「自分が誰か、はっきりするのが」
その声は、とても静かだった。
(私も、怖い)
(あなたが誰か、はっきりするのが)
でも、それは言えない。
「…無理に、今じゃなくても良いですよ」
私の声は、
思っていたより柔らかかった。
彼は、少し驚いた顔をしてから、
ゆっくり頷く。
「…ありがとうございます」
その“ありがとうございます”が、
ひとつずつ、私の理性を削っていく。
「…今日は」
私は、意を決して言った。
「ここに、泊まります?」
言った瞬間、
自分でも驚いた。
(何言ってるんだろう)
でも、引き返せなかった。
「警察とか病院とか、
明日、改めて一緒に考える、っていうのは…」
彼は、しばらく黙っていた。
それから、
ゆっくりと頷く。
「…ご迷惑でなければ」
「…迷惑じゃないです」
もう、言い切っていた。
「布団、用意しますね」
立ち上がると、
少しだけ、目の前が暗くなる。
(…あ)
ほんの一瞬。
壁に手をついて、
深呼吸する。
「…大丈夫ですか?」
彼が、すぐに気付いた。
「…ちょっと、立ちくらみ」
笑って誤魔化す。
「最近、よくあるんです」
それは、半分だけ本当だった。
「無理しないでください」
その言い方が、
すでに“同居人”みたいで、
少しだけ胸が痛くなる。
押し入れから、
来客用の布団を出す。
ほとんど使っていない布団。
それを敷きながら、
私は考える。
(本当に、ここで良いの?)
(この人を、この距離に置いて)
布団を敷き終えると、
彼は少し戸惑った表情をしていた。
「…何だか」
「?」
「さっきまで、外にいたのに」
「…うん」
「今、ちゃんと“部屋”にいる」
その言葉が、
胸に刺さる。
「…あの」
彼が、視線を落とす。
「もし…僕が、厄介な人だったら」
「…」
「今すぐ、追い出しても良いです」
私は、首を振った。
「追い出しません。」
即答だった。
「…どうして?」
理由は、沢山ある。
人として。
状況として。
倫理として。
でも、1番正直な答えは ―
(推しだから)
(あなたの音楽に、何度も救われたから)
それでも、言えない。
「…困ってる人を、放っておけないだけです」
半分は嘘で、
半分は本当。
彼は、しばらく私を見てから、
小さく笑った。
「…それ、1番信用出来る理由です」
夜。
電気を消す前、
彼がぽつりと言った。
「…花田(はなだ)さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「…いえ」
「もし、明日、全部変わっても」
1拍、置いて。
「今日の事は、忘れません。」
その言葉に、
胸がぎゅっと締め付けられる。
(忘れるかもしれない)
(でも、私は忘れない)
電気を消す。
暗闇の中で、
2人分の呼吸が重なる。
― 同居。
それは、
恋でも、家族でもなく。
期限付きの、仮の居場所。
そう思ったはずなのに。
私はもう、
この選択を後悔し始めていた。
そして同時に ―
少しだけ、
この夜が続けば良いと願ってしまっていた。






