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湯気が、ゆっくりと立ち上がっていた。
マグカップから漂う、少し薄いコーヒーの匂い。
それを、彼は両手で包むように持っている。
「…落ち着きましたか?」
私がそう聞くと、
彼は少しだけ考えてから頷いた。
「はい。…ありがとうございます」
丁寧過ぎるほど丁寧な言葉遣い。
それが、逆に現実感を薄くしていた。
(どうしよう)
頭の中で、同じ言葉が何度も回る。
警察。
病院。
事務所。
正しい選択肢は、ちゃんと浮かんでいる。
浮かんでいるのに、どれも今すぐ選べない。
目の前の彼は、
“助けを必要としている人”の顔をしていた。
そして ―
その顔を、私は知っている。
(推し、なんだよ)
心の奥にしまい込んでいた言葉が、
じわじわと浮かび上がる。
「…あの」
彼が口を開いた。
「僕、何か…悪い事、しましたか?」
「え?」
「だから…記憶がなくなるほどの事を」
その問いに、胸がきゅっと締まる。
「…してないと思います。
少なくとも、今のところは」
「…そっか」
小さく、安堵の息。
その様子が、
あまりにも“普通”で。
(だめだ)
(この人、今、完全に私を頼ってる)
「…病院、行きませんか」
声に出した瞬間、
自分の心臓が早くなるのが分かった。
「頭を打ったとか、
何か原因があるかもしれないし」
理屈は、正しい。
正し過ぎるくらい。
でも彼は、
マグカップを握る指に、少し力を込めた。
「…怖いです」
「…」
「自分が誰か、はっきりするのが」
その声は、とても静かだった。
(私も、怖い)
(あなたが誰か、はっきりするのが)
でも、それは言えない。
「…無理に、今じゃなくても良いですよ」
私の声は、
思っていたより柔らかかった。
彼は、少し驚いた顔をしてから、
ゆっくり頷く。
「…ありがとうございます」
その“ありがとうございます”が、
#学園
#どんでん返し
いえぇぇ?い
42
#記憶喪失
️🩵️青空 ゆら🫧
4,108
#ヒロうり
ひとつずつ、私の理性を削っていく。
「…今日は」
私は、意を決して言った。
「ここに、泊まります?」
言った瞬間、
自分でも驚いた。
(何言ってるんだろう)
でも、引き返せなかった。
「警察とか病院とか、
明日、改めて一緒に考える、っていうのは…」
彼は、しばらく黙っていた。
それから、
ゆっくりと頷く。
「…ご迷惑でなければ」
「…迷惑じゃないです」
もう、言い切っていた。
「布団、用意しますね」
立ち上がると、
少しだけ、目の前が暗くなる。
(…あ)
ほんの一瞬。
壁に手をついて、
深呼吸する。
「…大丈夫ですか?」
彼が、すぐに気付いた。
「…ちょっと、立ちくらみ」
笑って誤魔化す。
「最近、よくあるんです」
それは、半分だけ本当だった。
「無理しないでください」
その言い方が、
すでに“同居人”みたいで、
少しだけ胸が痛くなる。
押し入れから、
来客用の布団を出す。
ほとんど使っていない布団。
それを敷きながら、
私は考える。
(本当に、ここで良いの?)
(この人を、この距離に置いて)
布団を敷き終えると、
彼は少し戸惑った表情をしていた。
「…何だか」
「?」
「さっきまで、外にいたのに」
「…うん」
「今、ちゃんと“部屋”にいる」
その言葉が、
胸に刺さる。
「…あの」
彼が、視線を落とす。
「もし…僕が、厄介な人だったら」
「…」
「今すぐ、追い出しても良いです」
私は、首を振った。
「追い出しません。」
即答だった。
「…どうして?」
理由は、沢山ある。
人として。
状況として。
倫理として。
でも、1番正直な答えは ―
(推しだから)
(あなたの音楽に、何度も救われたから)
それでも、言えない。
「…困ってる人を、放っておけないだけです」
半分は嘘で、
半分は本当。
彼は、しばらく私を見てから、
小さく笑った。
「…それ、1番信用出来る理由です」
夜。
電気を消す前、
彼がぽつりと言った。
「…花田(はなだ)さん」
「はい」
「今日は、ありがとうございました」
「…いえ」
「もし、明日、全部変わっても」
1拍、置いて。
「今日の事は、忘れません。」
その言葉に、
胸がぎゅっと締め付けられる。
(忘れるかもしれない)
(でも、私は忘れない)
電気を消す。
暗闇の中で、
2人分の呼吸が重なる。
― 同居。
それは、
恋でも、家族でもなく。
期限付きの、仮の居場所。
そう思ったはずなのに。
私はもう、
この選択を後悔し始めていた。
そして同時に ―
少しだけ、
この夜が続けば良いと願ってしまっていた。