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拾った音、選び直す恋

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拾った音、選び直す恋

3 - 同居という名前の仮住まい

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2026年01月20日

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湯気が、ゆっくりと立ち上がっていた。


マグカップから漂う、少し薄いコーヒーの匂い。

それを、彼は両手で包むように持っている。


「…落ち着きましたか?」


私がそう聞くと、

彼は少しだけ考えてから頷いた。


「はい。…ありがとうございます」


丁寧過ぎるほど丁寧な言葉遣い。

それが、逆に現実感を薄くしていた。


(どうしよう)


頭の中で、同じ言葉が何度も回る。


警察。

病院。

事務所。


正しい選択肢は、ちゃんと浮かんでいる。

浮かんでいるのに、どれも今すぐ選べない。


目の前の彼は、

“助けを必要としている人”の顔をしていた。


そして ―

その顔を、私は知っている。


(推し、なんだよ)


心の奥にしまい込んでいた言葉が、

じわじわと浮かび上がる。


「…あの」


彼が口を開いた。


「僕、何か…悪い事、しましたか?」


「え?」


「だから…記憶がなくなるほどの事を」


その問いに、胸がきゅっと締まる。


「…してないと思います。

少なくとも、今のところは」


「…そっか」


小さく、安堵の息。


その様子が、

あまりにも“普通”で。


(だめだ)


(この人、今、完全に私を頼ってる)


「…病院、行きませんか」


声に出した瞬間、

自分の心臓が早くなるのが分かった。


「頭を打ったとか、

何か原因があるかもしれないし」


理屈は、正しい。

正し過ぎるくらい。


でも彼は、

マグカップを握る指に、少し力を込めた。


「…怖いです」


「…」


「自分が誰か、はっきりするのが」


その声は、とても静かだった。


(私も、怖い)


(あなたが誰か、はっきりするのが)


でも、それは言えない。


「…無理に、今じゃなくても良いですよ」


私の声は、

思っていたより柔らかかった。


彼は、少し驚いた顔をしてから、

ゆっくり頷く。


「…ありがとうございます」


その“ありがとうございます”が、

ひとつずつ、私の理性を削っていく。


「…今日は」


私は、意を決して言った。


「ここに、泊まります?」


言った瞬間、

自分でも驚いた。


(何言ってるんだろう)


でも、引き返せなかった。


「警察とか病院とか、

明日、改めて一緒に考える、っていうのは…」


彼は、しばらく黙っていた。


それから、

ゆっくりと頷く。


「…ご迷惑でなければ」


「…迷惑じゃないです」


もう、言い切っていた。


「布団、用意しますね」


立ち上がると、

少しだけ、目の前が暗くなる。


(…あ)


ほんの一瞬。


壁に手をついて、

深呼吸する。


「…大丈夫ですか?」


彼が、すぐに気付いた。


「…ちょっと、立ちくらみ」


笑って誤魔化す。


「最近、よくあるんです」


それは、半分だけ本当だった。


「無理しないでください」


その言い方が、

すでに“同居人”みたいで、

少しだけ胸が痛くなる。


押し入れから、

来客用の布団を出す。


ほとんど使っていない布団。

それを敷きながら、

私は考える。


(本当に、ここで良いの?)


(この人を、この距離に置いて)


布団を敷き終えると、

彼は少し戸惑った表情をしていた。


「…何だか」


「?」


「さっきまで、外にいたのに」


「…うん」


「今、ちゃんと“部屋”にいる」


その言葉が、

胸に刺さる。


「…あの」


彼が、視線を落とす。


「もし…僕が、厄介な人だったら」


「…」


「今すぐ、追い出しても良いです」


私は、首を振った。


「追い出しません。」


即答だった。


「…どうして?」


理由は、沢山ある。


人として。

状況として。

倫理として。


でも、1番正直な答えは  ―


(推しだから)


(あなたの音楽に、何度も救われたから)


それでも、言えない。


「…困ってる人を、放っておけないだけです」


半分は嘘で、

半分は本当。


彼は、しばらく私を見てから、

小さく笑った。


「…それ、1番信用出来る理由です」


夜。


電気を消す前、

彼がぽつりと言った。


「…花田(はなだ)さん」


「はい」


「今日は、ありがとうございました」


「…いえ」


「もし、明日、全部変わっても」


1拍、置いて。


「今日の事は、忘れません。」


その言葉に、

胸がぎゅっと締め付けられる。


(忘れるかもしれない)


(でも、私は忘れない)


電気を消す。


暗闇の中で、

2人分の呼吸が重なる。


― 同居。


それは、

恋でも、家族でもなく。


期限付きの、仮の居場所。


そう思ったはずなのに。


私はもう、

この選択を後悔し始めていた。


そして同時に ―

少しだけ、

この夜が続けば良いと願ってしまっていた。

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