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朝は、思っていたより早く来た。
カーテンの隙間から差し込む光が、
まだ夢の途中だった頭を、
無理やり現実に引き戻す。
キッチンから、かすかな物音。
(起きてる…)
時計を見ると、まだ7時前だった。
「…おはようございます」
振り向いた彼が、少し遠慮がちに言う。
「…おはよう」
声が、少しだけ掠れた。
(落ち着いて)
(いつも通りで良い)
頭の中で、何度も繰り返す。
彼は、テーブルの上を見てから言った。
「何か、手伝いますか」
「…いえ、大丈夫です」
反射的に断ってしまう。
距離を詰められると、
自分の心が持たない気がした。
卵を割る。
フライパンを温める。
いつもの朝ご飯。
でも、
“誰かに食べてもらう前提”の
動きになっている 自分に気付いて、
胸が少し痛んだ。
「…良い匂いですね」
彼が、そう言う。
「…卵焼きです」
「甘いの、しょっぱいの、どっちですか」
その質問に、
一瞬、息が止まった。
(知ってる)
(あなた、甘いのが好き)
でも、それを言ったら、
私は“知っている側”になってしまう。
「…今日は、甘いです」
無難な答え。
彼は、少しだけ目を丸くした。
「…何で?」
「…何となく」
本当は、
何となくじゃない。
(推しの好みを、無意識に出さないで)
自分に言い聞かせる。
食卓に並んだ朝ご飯。
向かい合って座る距離が、
思ったより近い。
彼は、卵焼きを1口食べて、
少し驚いた顔をした。
「…美味しい」
その一言で、
胸の奥が、きゅっと鳴る。
(知ってる)
(あなたがそう言う顔も、声のトーンも)
でも、知らないふり。
「…良かったです」
それだけ。
彼は、箸を持つ手を少しだけ止めて、
私を見た。
「…花田さん」
「はい?」
「初めて会った気がしないんです」
心臓が、強く跳ねた。
「…そうですか?」
必死に、平静を装う。
「うん。何というか…」
言葉を探すように、
少し視線を彷徨わせて。
「前から、知ってたみたいな」
(知ってる)
(私は、ずっと知ってた)
でも、それを言ったら終わる。
「…気のせい、ですよ」
そう言うと、
彼は少しだけ寂しそうに笑った。
その表情に、
胸が締め付けられる。
(ごめん)
(あなたの世界を、私は知ってる)
(でも、今は言えない)
洗い物をしていると、
背中から視線を感じた。
振り向くと、
彼が、少し困った顔で立っている。
「…何か、思い出しそうな感じがして」
「…何を、ですか?」
「自分の癖、みたいな」
彼は、無意識に指を組んで、
親指で人差し指を撫でていた。
(…その仕草)
ライブ映像で、
何度も見た。
緊張した時、
鍵盤に向かう前。
喉の奥が、熱くなる。
「…よくある事、じゃないですか」
私は、出来るだけ淡々と言った。
「…そう、ですよね」
彼は、納得したように頷く。
その“納得”が、
胸に刺さる。
昼前、
少しだけ目眩がした。
キッチンで立ち止まって、
深呼吸する。
(大丈夫)
(まだ、平気)
「…花田さん?」
振り向くと、
彼が、すぐそこにいた。
「…顔、白い」
「…ちょっと、寝不足で」
嘘が、増えていく。
彼は、
何も言わずに、
コップに水を注いで差し出した。
「…無理しないで」
その言葉が、
あまりにも自然で。
(立場、逆だよ)
(本当は、私が支える側なのに)
夜。
ソファに並んで座っていると、
テレビから音楽番組が流れてきた。
画面に、
見覚えのあるロゴ。
― TO THE ESCAPE。
心臓が、跳ねる。
彼は、
画面をじっと見つめている。
「…知ってますか?」
私が聞くと、
彼は首を振った。
「…名前は、どこかで聞いた気がする」
その言葉が、
胸を抉る。
(あなた、その中にいるのに)
画面に映るピアノ。
指が、鍵盤を叩く。
彼の指が、
わずかに動いた。
「…音、懐かしい気がする」
「…」
「胸の奥が、引っ張られる」
私は、
リモコンを取って、
音量を少し下げた。
「…今日は、疲れてるから」
「…うん」
彼は、素直に頷く。
(止めてしまった)
(あなたの“世界”を)
それでも、
止めずにはいられなかった。
夜、
布団に入ってからも、
眠れなかった。
隣の部屋から、
彼の寝返りの音がする。
(推しじゃない)
(今は、“一緒に暮らしてる人”)
何度も、
そう言い聞かせる。
でも、
胸の奥は知っている。
私は、
嘘をついている。
それも、
1番大事なところで。
― “推し”を隠すという嘘は、
彼を守るためであり、
同時に、
自分を壊す嘘だった。