テラーノベル
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梅雨の終わりの雨は、アスファルトを濃い灰色に染め、世界全体の音を吸い込んでいくようだった。
路地裏の奥にある「深雨堂」の呼び鈴が、チリンと頼りない音を立てる。
カウンターで古い詩集の修復をしていた蒼真は、顔を上げた。
「いらっしゃいませ」
入ってきたのは、ずぶ濡れの傘を手にした男だった。
仕立てのいいグレーのスーツ。整えられた髪は雨に濡れて少し額に張り付いている。男――山 中柔 太朗は、ひどく疲弊した顔で、抱えていた大きめの紙袋をカウンターに置いた。
「すみません、突然。……これ、買い取ってもらえますか」
紙袋から取り出されたのは、革装丁の古い日記帳と、数冊の専門書だった。
蒼真がその日記帳に手を触れた瞬間、指先から微熱のようなものが伝わってくる。
(……懐かしさ。それから、深い愛おしさと、少しの心残り)
それは、この本の前の持ち主が遺した、温かくも切ない感情の残滓だった。
「……大切な方の、お遺品ですか」
仁人が静かに尋ねると、柔太朗は驚いたように目を見開いた。
「どうしてそれを」
「この本が、とても大切にされていたのだと伝わってきたので。……お祖父様、でしょうか」
「……ええ。先月亡くなった祖父のものです。家を片付けていたら出てきて。俺には価値がわからないので、ここに持ってくれば誰か必要な人に届くかと思って」
柔太朗の声は低く、どこか投げやりだった。だが、その瞳の奥には、張り詰めた糸が今にも切れそうなほどの危うさがある。
仁人は日記帳を愛おしそうに撫で、それから柔太朗の顔をじっと見つめた。
「山中さん。……外はひどい雨です。査定には少し時間がかかりますから、温かいものでも飲んで待っていかれませんか」
断ろうとした柔太朗だったが、店内に漂う古い紙の匂いと、ストーブの上で沸騰するケトルの音、そして仁人の穏やかな眼差しに毒気を抜かれたように、小さく溜息をついて椅子に腰を下ろした。
珈琲を淹れる間、店内には雨の音だけが響いていた。
蒼真が差し出したカップから上る湯気を、蓮はぼんやりと見つめている。
「……最近、眠れていないんじゃないですか?」
仁人の問いに、柔太朗は自嘲気味に笑った。
「わかりますか。仕事が忙しくて。それに、祖父が亡くなってから、なんだか自分の家がひどく冷たく感じられて、落ち着かないんです」
柔太朗がカップを両手で包み込む。その指先がかすかに震えているのを、仁人は見逃さなかった。
仁人は自分の手のひらをそっと見つめる。他人の感情を読み取るこの力は、時に自分を疲れさせる呪いのようなものだと思っていた。けれど、目の前で今にも壊れそうなこの男の、凍えた心を少しでも溶かせるなら。
仁人はゆっくりと立ち上がり、柔太朗の隣の席に座った。
そして、躊躇いがちに、柔太朗の強張った右手に自分の手を重ねた。
「なっ……何、を」
驚いて手を引こうとする蓮。しかし、仁人の手のひらから伝わる圧倒的な「体温」と「安らぎ」に、柔太朗の身体の力がふっと抜けた。
仁人には見えた。
柔太朗の心の中にある、誰にも弱音を吐けずに孤立している、冷たい雨の降る景色が。
「山中さんは、頑張りすぎです。お祖父様を亡くされて、悲しむ暇もないくらい、自分を追い詰めて」
「俺は、別に……」
「泣いてもいいんですよ。ここは私と、古い本しかいませんから」
仁人の静かで、境界線を軽々と越えてくるような優しい声に、柔太朗の胸の奥で何かが決壊した。
重ねられた仁人の手を、柔太朗は衝動的に握り返した。骨が軋むほどの強い力だった。
「……どうして、そんな顔で人の心に入ってくるのさ…」
柔太朗の声が震えている。
仁人は逃げずに、その濡れた瞳を見つめ返した。
「決まってるじゃないですか。あなたが、今にも消えてしまいそうだったから」
窓を叩く雨の音が、二人の距離をさらに狭めていく。
握り合わされた手の熱だけが、暗い店内で確かな光のように互いを繋ぎ止めていた。
「……また、ここに来てもいいですか」
「ええ。いつでもお待ちしています。あなたの心が、少しでも温かくなるまで」
それが、孤独を抱えた二人が紡ぎ出す、静かな恋がはじまる。
コメント
1件
この雰囲気好きです😊なんか落ち着くというか…(ちょっと語彙力なくてすみません💦) しかもYJ! なおさらこの2人の雰囲気に合いますね♪