プロローグ
エヴァン・ヘレッセンは最後の手術を一通り終えると、手術室の前から名残惜しそうに立ち去った。鉱石のような尻尾を垂らして、翡翠の如く深い眸で辺りを睥睨する。縦にも横にも伸びた此の病院は世界最先端の技術だと賞賛を受けていた。殆どの医師は申し分ない腕前であるが、動物紳士、淑女達は口を揃えて「極光色の竜に頼みたい」と頼み込む。その度に、エヴァンは名前も覚えていないのかと落胆していた。壁に触れると、嫌だった筈の記憶が美化され、走馬灯のように蘇る。そして幼少期の記憶も同じく、エヴァンの瞼裏で明瞭に思い出された。
今では極光しかと表現されないが、その艶を帯びた鱗はよく父から蝶のようだと褒められていた。あの空を飛び、花に止まる蝶を思い出すと胸が躍る。彼にとってはこの世で一番と言っても過言ではない褒め言葉だった。然し、唯一弟は褒め言葉を投げ掛けてはくれなかったのだ。その悪眼立ちする鱗が気に入らないとだけ文句を言われた。
記憶に鼻で笑いながら、もう歩くことのない長廊下を通り抜け、消毒液の匂いが染み付いた階段を下りる。眼立たない端の棚に置かれた賞状と金牌は、硝子窓から射す光に煌めく。嗚呼、最後に生徒の顔を拝みたかったと俯いた。そして、仕方が無いと胸に鞭を打つ想いで玄関から立ち去る。然し、矢張寂しかった。何度も背後に聳え立つ城のような病院を振り返っては、前に伸びる道を見る。月光が濡れた土瀝青に反射していた。そして、視界の果てまで聳える構造建築物からは徹夜の光が漏れている。飛び立って、帰ってしまえば終わりだと翼を広げたその刹那、病院沿いの道から呼ぶ声がした。
「大先生、こんな夜遅くに会うなんて奇遇ですね。また執刀したんですか」
企鵝のような模様の黒い竜が、長外套姿で歩いている。エヴァンは眼を丸くして翼を畳んだ。くっきりとした濃淡のある皮膜が縮む。
「……オーランか。私はその通りだが、お前は一体何をしている。土砂降りの中で散歩でもしていたのか」
ずぶ濡れのオーランを見下ろした。毛が濡れて細くなっているのは言うまでもない。長外套は絞れば水が出るのではないかと思う程、重々しい姿になっている。
「そうですよ。勉強三昧で眠くなるので、少し眼を覚まそうと思い走っていました。だって、大先生の出す難問は格が違いますから。……今回の試験も出てきますよね?」
ポタポタと水を垂らしながら、笑みを浮かべるオーランに寂しさを感じた。もう、離れなければならない。別れの時が迫っていたのだ。
「既に作っている。私でも難しいと思う問題になったが、勉強すれば解ける。まぁ、素晴らしい医者になる為、今のうちに頑張れ。何処からでも応援している」
胸が締め付けられるような思いを抱えて言い放った。望んでいた生徒に会え、言葉を伝えられた。もう、後悔は無い。再び翼を広げて、二度三度大きく羽ばたくと黒外套を揺らして空へと溶け込んでいった。冷酷な教授である筈のエヴァンから出てきた激励の言葉に愕然とする。オーランは驟雨の中、胸に引っ掛かる言葉の意味について頭を悩ませた。
眼にも留まらぬ速さでエヴァンは荷物を全て纏めて、鞄に詰めた。上の階から聞こえる天井の軋む音に危なっかしさを感じずには居られなかった。待たずに時計の針はチクタクと音を立てて進んでゆく。硝子窓から覗いて、まだ暗いと安心した。
此の廃墟の様な豪邸から出奔する直前、エヴァンは年季の入った燕尾服を纏ったまま、眼の前にある姿見を一瞥した。そこには、有りの儘の姿、すなわち絹帽を被った竜の紳士が映し出されている。角は二本後ろに向かって伸び、その角に向かって両瞼の上から尖った鱗の突起が連なっている。そして、極光のように紅紫の艶を帯びた臙脂の鱗が、薄暗い部屋で燦然と煌めく。エヴァンはその容貌を見るなり眼を逸らした。唯でさえ眼立つ竜なのに、この鱗ときたら艶が付き纏ってくる。然し……嗚呼、確かに。極光と呼ばれれば納得する。改めて、服の縒れが無いか確認して、服の先についていた砂埃をサッと払い落とした。準備を終えて、階段の向こうへ声を張り上げる。
「クルル、寛いでいる暇は無い。早く支度しないと夜が明ける。紳士に会って『何処へ行く』と問い詰められるのは御免だからな」
階段から、不似合いで皺のある燕尾服を着た麒麟が蹄を鳴らして駆けてきた。その麒麟は書にも綴られている通り、麕身、牛尾、馬蹄の通りである。髪は長く巻き毛で、顔は鹿と牛を合わせた様。額からは一本の角を生やし、黄蘗の毛だ。
クルルはエヴァンの冷淡を押し固めたような表情を見て、思わず眉を曇らす。威圧感のある眼に蹌踉めきそうになる。分厚い手紙のせいだと確信していた。
「……疚しいことも無いし、有りの儘に答えれば良いでしょう。『暫くの間は隣街の病院へ移るのだ』と」
「口の軽い生徒に出会したら大変だろう」
クルルは胸に罪悪感の入り混じった靄のようなものが掛かるのを感じた。本当は面と向かって、全ての生徒に別れを告げたい。もし、途中で会えたら幸運だと、心の何処かで思っていたのだろうか。言葉に表せない寂しさが込み上げ、俯いたまま頷く。今、喚けば止まらなくなる。クルルは下唇を強く噛んだ。そして、そのまま扉を内側に開く。冷え切った風が小麦色の巻き毛を揺らした。
「なら、行きましょう。私が貴方を背負って走りましょうか。此の脚なら何処まででも行ける気がします」
自慢するように蹄を見せる。然し、エヴァンは無表情に俯いたまま首を横に振った。
「結構。いつか翼が撃たれた時は宜しく頼む」
「無論、頼まれなくても助けますよ」
苦笑して外へと踏み出す。先にエヴァンが重そうな鞄を両手に抱えて、隠していた翼を広げた。息を呑むほどに美しい、青みがかった皮膜をピンと張ったまま大きく羽ばたいて飛び立つ。徐々に青緑の艶を帯びて、紅紫と交ざりながら小さな影となり夜空へと溶け込んだ。クルルは恍惚としてそれを眺めていたが、直ぐに両腿を叩いて走り出した。
この事の発端は、一通の分厚い手紙である。或日の朝方、呼鈴の音が鳴り響いた。突然の訪問にクルルが寝惚け眼を擦りながら扉を開けると、軍服を纏った虎毛の犬が立っていた。背後からは逆光が射し、ピンと立った耳や鍛え上げられた体の縁が淡い光を帯びている。袖が捲れ上がり、左手に上が欠けた三日月の刺青が覗く。烙印のようにも見えた。誰だと尋ねる前に、分厚い包を手渡される。只事ではないと思い、咄嗟に中身を開けてみると、達筆な字でボニファーツ・コリネリウスと記されていた。紙を広げ、一心不乱に読み進める。
──親愛なるエヴァン・ヘレッセンへ。君がこれを読む時、きっと苛立っていることだろう。君も知っている通り、アンブロシア学校を卒業してから僕は陸軍学校へ、君はアンブロシア大学の医学部へ進んだ。それから数年も会っていないんだから、仕方が無い。然し、君も君だ。教授になってからというもの何度か電話をしたが手術や授業で一切返事が無い。せめて、一言だけでも返事が欲しかった。
さて、僕は今の君にお願いがある。マールム大学で教授をしているそうだが、僕の指定した日にマールムからシュリーフェラまで来て欲しい。故郷から近い所だから君もよく知っている筈だ。林檎畑を通り過ぎて、橋を渡って──シュリーフェラまで来れたら、今、手紙を渡しに向かわせた軍動物が送り届けてくれるから心配しなくて良い。そして後に軍事に関わる病院で医者をして欲しいという願いだ。最近起きた爆発事故の負傷者や負傷兵の救護、治療を頼みたい。僕は関係なく、國からの命令だ。その様な内容でまた手紙が届くから、詳細は別に届いた用紙を見て欲しい。時間、場所、手続き等が山積みだ。そして条件がある。
先ず、クルル助教を同行させること。
次に、生徒含め周囲に此の話を漏らさないこと。
最後に、逃げ出したり助けを求めないこと。
医者をしているエヴァン君なら、勿論、患者を見捨てたりなんか出来ないだろう。僕は君が薄情者じゃないと心から信じている。
クルルは虎毛の犬を見た。上品で滑らかな紙を棚へ置くと、紅茶を飲まないかと部屋へ手招きする。然し、犬は眼を合わせたまま首を横に振った。
「私は手紙を届けるようにと頼まれただけです。何故、貴方から出された紅茶を飲まなければならないのですか?」
不遜な物言いだとクルルは舌打ちした。犬は朝露を踏みつけたまま長い口吻を撫でて見下ろしている。
「私が貴方の立場なら、同じ事を言って拒むでしょう。そう言えば、ボニファーツって誰ですか」
「青豹と呼ばれている方です。姿を見たことは一度もありませんが、染め上げたような青毛の豹だと伝えられています」
暫く聞いていると、どうやら青豹──すなわちボニファーツは華麗さと慈悲の心を携えた豹らしい。その説明で間違いないそうだが、その顔全体に皺を寄せたような表情から察するにこれは真っ赤な嘘である。クルルは思わず耳を垂らして、可哀想だと憐れんだ。
其時、階段の向こうから重々しい足音が響く。エヴァンが起きたに違いない。これは不味いなと追い出そうか逡巡した末、犬に頭を下げて追い出した。大急ぎで床に散らばった紙を片付けているうちに、包が風で吹き飛んだ。包の裏には、上の欠けた三日月と、それを囲うように散りばめられた点のある印が押されていた。何事だと下りてきたエヴァンがそれを見つけてしまい、全てが明らかになったのである。
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